一人ひとりが違った温度で、判決内容を受けとめているようだった。
個人的には落第でも及第点でもない、疑問が残る結果だったと思う。それでも「差別」は避けたものの、差別動機による犯行を軽く扱い、単なる放火事件として片づけることもしなかったことは評価したい。焼けた看板を「ウトロの象徴」と認めたことも、法がウトロに暮らす人達を守ったと解釈できる。何より、被害者が「ほっとする」ことができたのだから、意味があったのではないか。これらの点から見ると「一歩進んだ判決」だったと言えるだろう。
「ネットで調べんと、ウトロに来たらよかったんよ」
みたび、焼け跡を目指す。裁判が終わるまで証拠として残されていたが、いずれ取り壊される。今見える景色は、これで見納めかもしれなかったからだ。そしてウトロ平和祈念館館長の田川明子さんから聞いた話の、答え合わせをしたかったのもあった。
(田川明子さん)
「火事の現場の黒く焦げたところにね、見るのがしのびないと野菜を植えちゃったおばちゃんがいて。露地にね、唐辛子と朝鮮カボチャとシソの葉に似たやつ、そうそう、エゴマが植えてあるんです。エゴマの虫喰いの葉をちぎってたら、いい香りがしてきて。この前、祈念館に持って行って、チヂミに入れておばちゃんたちと一緒に食べました。火事を思い出すのが嫌だからって、野菜を植えて皆で食べる。これが、ウトロの人たちなんです」
彼女の言葉通り、緑色に茂る葉の中に赤い唐辛子が鮮やかに色づいていた。その奥に、朝鮮カボチャらしい草の蔓も伸びていた。差別によって奪われたとばかり思っていた「生活の色」が、少しずつ復活していたのがわかった。
田川さんによると、ウトロ平和祈念館の来場者は半年で5000人を超えたそうだ。開館を阻止したかった被告も4年後、やってくるかもしれない。その時はどうするのかと、我ながら悪趣味な質問を田川さんにぶつけた。
(田川明子さん)
「ウトロのおばちゃんたちが、『(被告は)22歳で人生を棒に振るような大それたことをしてしまって、自分の人生をあんなふうにしたらあかん。インターネットで調べんと、来たらよかったんよ。どんなところやろって、ほな教えたるがな』って言ったんです。
『腹いっぱい飯食わすわなぁ。ビールもつけてあげるで。そうやってウトロに出会ってくれれば、大事な人生を22歳で棒に振らんで済んだのに』って。私もね、彼には『刑期が終わったら、ウトロにいらっしゃいよ』って言いたいです。その時は腕によりをかけて、ウトロについて説明してあげますよ」
田川さんは笑顔を浮かべた。一点の曇りも戸惑いもない、力強い笑顔だった。
京都飛行場時代を知る世代は、年々減少しつつある。所得制限を超えると公営住宅の入居資格を失うことから、引っ越しを余儀なくされる住民もいる。再開発により貧困と差別の象徴だったウトロは、これまでとは違う町に変わっていく。しかし自分たちに悪意を向けた人間すら「腹いっぱい飯食わすわなぁ」と包みこもうとする人たちがいる限り、育まれてきたものは変わることはないだろう。
キラキラと光る唐辛子の赤を見つめているうちに、胸に抱えた怒りが消えていくのがわかった。ウトロに「地縁も血縁もない」と隔たりを感じていた私自身も、ウトロに迎えられた一人になっていた。
人種差別撤廃条約の6条
締約国は、自国の管轄の下にあるすべての者に対し、権限のある自国の裁判所及び他の国家機関を通じて、この条約に反して人権及び基本的自由を侵害するあらゆる人種差別の行為に対する効果的な保護及び救済措置を確保し、並びにその差別の結果として被ったあらゆる損害に対し、公正かつ適正な賠償又は救済を当該裁判所に求める権利を確保する。