2023年3月7日、出入国管理及び難民認定法(入管法)の改正案が閣議決定され、国会に提出された。この改正案は、国外退去を命じられた外国人の長期収容問題の解消を目的とすると謳われているが、内実は追い出しに拍車をかけたものであり、一昨年、国内外の強い批判の声もあり廃案となっていたものだ。その法案をほぼ踏襲した改正案が再び提出された。
一昨年の改正案から入管の問題を見つめ続けてきた小説家の木村友祐氏が、入管法に翻弄される当事者の実相に迫った。【全3回】
一昨年、多くの批判の声に廃案となった入管法改定案(内容が「改正」になっていないので「改定」と書く)が、問題部分を改善することなく再び国会に提出された。入管は(法務省は)、在留資格がないのなら事情にかかわりなく排除するという非情な姿勢は頑なに堅持するつもりのようだ。
しかし、この改定案が通って苦しみを味わうのは在留資格のない外国人ばかりではない。日本人であっても理不尽な苦痛と悲しみに見舞われてしまう。在留資格のない外国人配偶者のいる日本人の妻たちである。
新宿の某貸し会議室でお会いしたカタクリ子さん(ツイッターのアカウント名/51歳)は、ヒジャーブを被っていなかった。ウェーブのかかった栗色の髪が揺れている。彼女は自らイスラム教に改宗したムスリムだ。
「こんな繁華街でヒジャーブして歩くと目立つし、やっぱり、初対面の相手だと、距離ができちゃうんですね」
そう言われてちょっと動揺する自分がいた。たしかに、今はこのように抵抗なく向き合っているけど、もしヒジャーブを被っていたら、気にしないように努めただろう自分が予想できたから。
「ヒジャーブするかどうかの選択は、本来は自分に委ねられているので、誰かに強要されるものじゃないんですよ。信仰が深くなれば、教義上好ましいとされていることを、自分のチョイスで生活や人生の中に取り入れていく。それがイスラムの姿です。イスラム教って、いろんな制約がすごいありそうな気がしますけど、その意味で自由なんですよね。あくまでも私と神様の関係で、周りは関係ないから、すごく自由です。だから、私には心地がいいですよね」
カタクリ子さんによれば、本来のイスラム教とは、もっと平和で伸び伸びしていて、女性の権利もちゃんとある宗教なのに、権力者が勝手にクルアーン(コーラン)の解釈を男に都合のいいように変えてしまっているのだという。そしてその姿が、世界中の人々の目に映るイスラムになってしまっている。それがカタクリ子さんには悲しく、腹立たしい。
「どこの国も、今、ちゃんとイスラムを実践してる国なんて、たぶんないと思いますね」
よく通る声で、時折冗談をまじえながら快活に話す。端々にこちらを気遣う繊細さも伝わる。ツイッターで不寛容な物事に対して辛辣な言葉を放つ印象からは遠かった。ぼくは、その辛辣さや皮肉が的確であることに感心し、ただ者ではなさそうだと予感していた。
実際、ただ者ではなかった。カタクリ子さんは「人生を2回経験してるんじゃないか」と言って笑うのだが、たしかに、ちいさな世界で猫をかまいながら暮らしているぼくなんかより、はるかに膨大な経験をされていた。波乱の半生と言ってもいい。
20代のころにアトピーの症状に苦しみ、高知県の病院に入院。そこで出会った男性に教えてもらったヨガをはじめたら症状が改善した。その男性と結婚し、後に離婚したが、ヨガは続けていた。より深く学びたいとインドの国立大学に留学。そのとき出会ったケニア人男性と恋に落ち、子どもを授かったものの、不慮の事故で恋人を失ってしまう。
その後、日本でヨガ教室やカレーの屋台で働きながら1人で子どもを育て、イスラム教に改宗した縁で出会ったムスリムのガーナ人男性と結婚。「女性は卵のように扱いなさい」と母から言われて育った、10歳年下の優しくて子ども好きの夫との幸せな結婚生活は、しかし長くは続かなかった。夫が収容されてしまったのだ。カタクリ子さんは子どもを育てながら収容された夫を支えたが、入管職員に半ばだまされるかたちで夫はガーナに帰国。夫になかなか日本のビザが下りないせいで、ある悲しい決断に追い込まれる……。
お話をうかがっていると、日本という枠を超えた経験を持ち、また海外ルーツの子どもたちの支援業務にも携わってきたカタクリ子さんの知見はじつに示唆的で、学ぶべきことが多い。また、なぜ自分はこうなったのか原因を知りたい、自分のほんとうの関心は人の心の動きとか暗部を知りたいところにある、とも語った。信じるに足るものを探して仏教の教義に触れたり、瞑想を実践したり、お遍路を歩いたりしたのもそこと通じていたのだろう。
「宗教とか、信心とか、そういうものを勉強してたら、もっと強くなれるんじゃないかなと思ってたんですね。でも、色々やっても自分が強くなってる実感が全然なくて。何かもっとあるんじゃないかと思ったときに、スリランカのお坊さんが書いた本を読んでいたら『ムハンマドの言葉』というのが載っていて。その言葉を見たときに『あっ、これだ!』と思って。私のほしいものが全部その数行に書いてあったんです」
信仰は力の源泉、などと書かれたその一文は、しかし実際に預言者ムハンマドが語った言葉だという確証はないことが後に判明するのだが、その言葉との出会いをきっかけにカタクリ子さんはイスラム教の本を何冊か読み、「これ、私に向いてるなぁ」と直観して、7年ほど前、子どもが小学校に入る年くらいにイスラム教に改宗した。
とても興味深かった。そして、そうだよなと感じ入っていた。入管に翻弄されたことだけがこの方の人生じゃないよな。それを伝えたいよなと。
だが、こうして原稿を書いているぼくは、そこで葛藤する。取材の意図、記事の方向は入管に関する話題である。カタクリ子さんもそれに納得して応じてくれた。ということはやはり、文字数の都合上、もういきなり本題に入らなければならない。彼女の豊かであり多難でもある人生を、入管問題という枠で切り抜き、編集する……。
この戸惑いは、ぼくに記者のスキルがないからなのだが、でも案外、大事なポイントかもしれない。入管制度は、そのひと個人が本来持っている魅力的な人柄も、多様で豊かな人生経験も、まるでないかのように扱うが、カタクリ子さんの境遇に痛ましさを感じるぼくのような者に記事にされる際にも、同様に「入管の犠牲者」の型に押し込められてしまう。