カタクリ子さんのガーナ人の夫は、2017年の5月、面接の呼び出しがあって品川入管に行った際、突然、収容された。そのときのことをカタクリ子さんはまざまざとおぼえていた。
「収容された日、私も一緒に行ったんですね。毎回不安だから、仕事を休んでついて行くんです。でも、お昼前に面接に入ったのに5時間待っても全然出てこなくて。『え、どういうこと?』と思って。結局、閉館時間になって、『蛍の光』みたいな音楽が流れてきて。そこで電話がかかってきたんですよ、私の携帯に。それで『収容しました』って言うんですよ。『えっ? いや、私、今日ここでずーっと待ってたんですけど。夫はそれ言いましたよね』って言っても、『収容したんで』としか言わない。ちゃんと答えないし、何も説明がないんですよ」
「絶対そこで夫は、『いや、妻がそこで待ってるから、話をさせてくれ』とか、『妻がそこにいるから、伝えてくれ』とか言ったはずなんですよね。言わないわけないと思うし、入管のほうも『今日、誰と来てるの?』と必ず聞きますしね。私がいることは向こうは把握しているのに、何も知らせてくれない。『どうしたらいいんですか』って言ったら、『どこどこで聞いてください』、ガチャン! みたいに電話切られて。もう閉館になるのにどうすればいいのって」
「そのとき私、夫の荷物を全部持ってたから、夫は着の身着のままなんですよね。『歯ブラシもないし、着替えもないし』って。それに『あの人、お昼ご飯食べてないよ!』と思って。夫はお昼を食べないまま面接に入ったから、お腹空いてるだろうって。喉も渇いてるだろうって。あの人は何も持たないまま、着替えもないまま、ここで過ごすんだと思ったら、なんかすごい可哀想で、ほんとうに可哀想で……」
そのときの気持ちがよみがえったのだろう、声を詰まらせて「ごめんなさい」と言ったカタクリ子さんに「いえ」と首を振った。メモをしながらぼくの目も潤んでいた。「お昼ご飯食べてないよ!」。夫の空腹を痛みとともに可哀想に思う。家族と引き離される人の心情が、初めてわかった気がしていた。
「そこでもう『私って、何なの?』と思って。ちゃんと戸籍上も結婚してるのに。妻なのに。まずそこで奪われた感じですよね。この私の尊厳が一切無視されたというか」
収容は2年にもおよんだ。収容されたのは、南アフリカの国籍に変えた偽造パスポートで入国したためと思われたが、しかしその「不法」には、ガーナ人にはビザを出さない先進国が多いという事情があった。また、日本に来たのは、たまたま南米に向かう飛行機のトランジットで立ち寄っただけで、本来は空港の外に出られないはずが、なぜか出られてしまった。それを夫は「南米に行かず、日本でもがいてみろ!」という神からのメッセージと受け取った。日本で成功したガーナ人が夫の周囲にはたくさんいた。日本で働いて、ガーナの両親・家族を支えることを夢見てそのまま滞在しただけのことで、なんの悪意もなかったのに、まるで犯罪者であるかのように2年も収容されたのである。
どんどん弱っていく夫を心配するカタクリ子さんに、入管の職員は、態度がいいので帰国を承諾すれば、通常は再入国できるまで5年かかるところ、1年3か月で戻れる可能性があることを伝えた。「すぐビザ出ますよ。お宅のケースは」と無責任に言ったのだった。
ほんとうにそうなる確証はない。だが、100キロあった体重が70キロ台まで落ち、目つきがおかしくなるほど精神的にダメージを受けているのを放っておけなかった。何よりも、夫の収容にショックを受けて荒れるようになった息子との修羅場のような日々も、生活費に加えて夫のサポートにかかる月4〜5万円もの出費を全部1人でまかなう暮らしも、とうに限界に来ていた。
夫と相談し、職員の言葉を信じるほうに賭けて、帰国を承諾。夫は2019年の8月に収容所から出て、ガーナに帰国した。だが、それから1年たって夫のビザ(「日本人の配偶者等」のビザ)を申請しても、許可は下りなかった。
「2020年から申請を出し始めて。1回出したら半年間は出せないんですよ。半年待って、ダメで、またすぐ出して、ダメで、また半年待って、ダメで。なぜダメなのか、弁護士の先生が理由を聞きに行っても、まぁ教えてくれない。でも3回目のときに、子どもが夫との『実子じゃないから』って言われたんですよね」
子どもが実子でないことを理由にほんとうの家族と認めず、夫にビザを出さない。品川入管に収容中、親子面会を求めた際も「じゃあ、DNAの鑑定書を持ってきて」「彼の子どもじゃないでしょ」と言われたという。血のつながりだけを家族の証とみなすなんて、入管という組織は一体いつの時代のものなのか。
ビザが出るという希望が奪われていく中、ガーナにいる夫との心のすれ違いが生じてきた。海外から帰って文無しなのは恥だろうと、夫には仕送りをしていたが、そのせいか夫はいつまでも働こうとはしなかった。収容のダメージからくるウツかもしれないと思いつつ、いい加減ちゃんとしてほしいと仕送りを止めたら、「俺を見捨てるのか」「もう愛してないのか」「日本人のムスリムとばっかりくっついてるから、そんな考え方をするんだ」と理解してくれず、口論になる。
「これがもし、日本に彼がずっといたなら、また違ったんだと思うんですよね。少なくとも2人で病んでいられるというか。お互いの顔を見ながら、お互いの体温を感じながら病むのと、物理的な距離があって病むのでは、やっぱり全然違うと思うんですよね……」
夫は「もう俺、やっぱりどこかに働きに行く」と言い出した。他国への出稼ぎのことである。カタクリ子さんは「いいよ、行けば」と答えたが、「だけど、今回、最後のつもりでビザの申請を出すから、その結果を見てよ。それからにして」と伝えた。「だめかもしれないけど、でもやってみるから。今、頑張ってるから、少し待ってくれない?」。だが夫は「待たない。俺はもうどっかに行っちゃうんだ」と耳を貸さなかった。
お互いの心に齟齬(そご)が生じた。このころにカタクリ子さんは、入管と徹底的に闘うつもりでツイッターで「カタクリ子」のアカウントを開設したのだが、内心では、自分たち夫婦は大丈夫なのかという不安を感じながらのことだった。
それまで毎日電話していたのが、3日に1遍になり、4日に1遍と間隔が空くようになった。久しぶりに電話が来たと思ったら、夫はガーナを出国して、ガーナ人がビザなしで入れる南米のガイアナ共和国にいた。南米を通って、兄のいるアメリカをめざしていたのだった。相談はなかった。