法律は立法の過程における議論が解釈に影響するものである。ゆえに、この条項が「多数派への配慮」の議論の末に出てきたことは、マジョリティの安心なくして施策を実施できないものとする、形を変えた「多数派への配慮」条項ではないかという批判を招いた。この条項は最終的に与党案にも取り入れられ、成立したことから、懸念はさらに根強いものとなっている。
ただ、法案提出者はこのような懸念を踏まえてか、国会審議という公式の場において、第十二条は第一条や第三条を強調するために入れた留意事項であり、「留意事項が入ったことによって自公原案から法制上の意味や法的効果が変わるものではありません」と答弁している。国会審議における法案提出者の答弁は、解釈に対してより強く影響をもたらすことから、第十二条は「多数派への配慮」ではなく、前述の通り基本的人権の尊重や不当な差別はあってはならない、人格と個性を尊重し合うと謳っている第三条の強調であることが明確になったといえる(註13)。
今後の展望
しかし、上記のような国会答弁、法解釈を踏まえず、一部政治家の間で、第十二条は「多数派の安心」を施策の前提とする規定であると主張し、法の「適切な運用」などと言って施策の推進を妨げる動きも見られる。これらは、法の「適切な運用」を考える上で、国会の法案提出者の答弁に反する「不正確」な見解となることは、ここまで述べてきた通りである。
また、性的指向は自ら選択可能、自ら変えられる、あるいは「教育で誘導できる」ものであるかのような言説や、性同一性障害は幻想であって存在しない、などといった極端で科学的知見を無視した言動も未だにSNS上などでは見られる。そして、それらに影響される政治家も残念ながら散見される。
こういった、議論の残滓としての言説の影響を受けることなく、まさに「全ての国民が、その性的指向又はジェンダーアイデンティティにかかわらず、等しく基本的人権を享有するかけがえのない個人として尊重される」社会に向けて、本稿に示したような実態を踏まえ、国、地方公共団体、事業主(企業等)、学校設置者が、それぞれ積極的に取り組むことが求められている。
シスジェンダー
出生時に割り当てられた性別に違和感がなく性自認と一致し、それに沿って生きる人のこと。
(註1)
時事通信「LGBT法、独自案協議 シスジェンダーに配慮―維・国」2023年5月19日(https://www.jiji.com/jc/article?k=2023051900853&g=pol〈2023年10月15日取得〉)
(註2)
釜野さおり・石田仁・風間孝・平森大規・吉仲祟・河口和也、2020、『性的マイノリティについての意識:2019(第2回)全国調査報告会配布資資料』JSPS科研費(18H03652)「セクシュアル・マイノリティをめぐる意識の変容と施策に関する研究」、(研究代表者 広島修道大学 河口和也)調査班編(http://alpha.shudo-u.ac.jp/~kawaguch/2019chousa.pdf〈2023年10月15日取得〉)
(註3)
日本労働組合総連合会、2016、「LGBTに関する職場の意識調査」( https://www.jtuc-rengo.or.jp/info/chousa/data/20160825.pdf?8620〈2023年10月15日取得〉)
(註4)
埼玉県、2021、『埼玉県 多様性を尊重する共生社会づくりに関する調査報告書』(、https://www.pref.saitama.lg.jp/documents/183194/lgbtqchousahoukokusho.pdf〈2023年10月15日取得〉)
(註5)
調査で報告されているあからさまな差別の他に、一見「性的指向」や「性自認」と無関係に見えても、実質的に性的マジョリティが有利になるような制度や慣行の存在も指摘できよう。例えば、企業において、明文化されていないが、「結婚」している人のみが昇進し、そうでない人は昇進しないという慣行があるとの事例が聞かれる。この慣行は、現在の制度上、性的マイノリティの多くが「結婚」という条件を満たすことができないことから、実質的に不利益を被る可能性が高い。このような制度や慣行は「間接差別」と言われ、性別による差別を禁止している男女雇用機会均等法では、間接差別を禁止する条文が置かれている。諸外国においては性的指向や性自認に関する間接差別を禁止している国も見られる。
〈註6〉
三菱UFJリサーチ&コンサルティング『令和元年度 厚生労働省委託事業 職場におけるダイバーシティ推進事業 報告書』2020、p236
(註7)
ILO(2015)”Discrimination at work on the basis of sexual orientation and gender identity: Results of the ILO’s PRIDE Project”(https://www.ilo.org/wcmsp5/groups/public/---dgreports/---gender/documents/briefingnote/wcms_368962.pdf〈2019年7月1日取得〉)。なお、邦文は中島圭子、2015、「LGBT法連合会がオルネイ部長と懇談」(ILOジェンダー・平等・ダイバーシティ部長のショウナ・オルネイ氏来日特集)『WORK&LIFE 世界の労働』日本ILO協議会(26)、p21~25に掲載されている。
(註8)
日本放送協会「同意なき性的指向暴露“アウティング”巡り 労災認定 全国初か」2023年7月24日(
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230724/k10014140411000.html〈2023年10月15日取得〉)
(註9)
被害を受けたものの心身の状況や受け止めには「配慮」に留まる規定となっている。
(註10)
一方で、性的マイノリティへの差別が存在する故に、性的マジョリティも、「性的マイノリティであろう」もしくは「性的マイノリティに見える」という、性的指向や性自認が非典型であるという憶測に基づく差別を受けやすい社会環境があることは、別途留意すべき事項である。
(註11)
ただ、性的マイノリティの基本的人権が尊重されていない場合は、性的指向やジェンダーアイデンティティの多様性を理解することが、マイノリティの人権尊重に繋がりやすいとはいえよう。
(註12)
以下は理解増進法成立前に国会答弁で示された政府見解を文面にしたものと解される。厚生労働省医薬・生活衛生局衛生課長「公衆浴場や旅館業の施設の共同浴室における男女の取扱いについて」2023年6月23日(https://www8.cao.go.jp/rikaizoshin/meeting/k_1/pdf/ref3.pdf〈2023年10月15日取得〉)
(註13)
加えて、「全ての国民が安心して生活〜」の「安心」が主観的な文言であり、どのようにも解釈できてしまうとの声も聞かれたが、この点、政府の担当として答弁に立った小倉將信共生社会担当大臣(当時)は、「EBPMの推進は、政策の有効性を高め、国民の行政への信頼の確保に資するものでありまして、本法案における理解の増進に関する施策の推進等におきましても大事にしなければならない視点だと考えております。」と答弁している。内閣府によれば「EBPM(エビデンス・ベースト・ポリシー・メイキング。証拠に基づく政策立案)」とは、「政策の企画をその場限りのエピソードに頼るのではなく、政策目的を明確化したうえで合理的根拠(エビデンス)に基づくものとすることです。政策効果の測定に重要な関連を持つ情報や統計等のデータを活用したEBPMの推進は、政策の有効性を高め、国民の行政への信頼確保に資するものです。」とされている。主観的な「安心」で振り回されないよう、この点でも釘が刺されているといえよう。