家なき64歳女性の死
東京都渋谷区にある「幡ヶ谷原町バス停」――、2020年11月16日、大林三佐子さん(享年64)が命を落とした場所だ。大林さんは終バスが出た後にキャリーケースを引いてここにやってきて、高くて小さい椅子に腰をかけ、夜を過ごしていた。ただひっそりと朝を待っていただけなのに、大林さんは近所の男に「邪魔だと思った」という理由で、石とペットボトルを入れた袋で頭を殴られて死亡した。所持金はわずか8円、携帯電話を持っていたが、8カ月前に契約は切れていた。
40年前は劇団員として活動していた大林さん。なぜ、こんな最期を迎えなければならなかったのか。
大林さんは20代後半で結婚したが、夫の暴力で離婚。その後、いくつかの職を転々とし、50代には試食販売の仕事に就いた。
試食販売員は登録した会社から仕事を請け、さまざまなスーパーに出向くが、手にする対価は1日に7000円ほどのこともある。福利厚生など何もない、身一つの仕事だ。綱渡りのような生活は、60歳で破綻する。家賃の滞納で、アパートを退去せざるを得なくなったのだ。それでもキャリーケースに荷物を詰め、ネットカフェに泊まりながら、試食販売を続けていた。仕事さえあれば食料を買い、屋根のある場所で身体を横たえることができる。
しかし、コロナ禍が大林さんの命綱を奪う。スーパーから、試食販売が一斉に消えたのだ。ネットカフェに泊まる金も無くなり、炊き出しの列に並び、夜を過ごすために辿り着いた場所が「幡ヶ谷原町バス停」だった。
まだ64歳、現役世代と括られる年齢だ。仕事を失っただけでなぜ、あっという間に路上生活に追いやられなければならなかったのか。女性が単身で生きることはなぜ、これほど、「崖っぷち」なのだろうか。
単身女性を待ち受ける高齢期の貧困
2024年3月8日、朝日新聞1面に載った、「単身の高齢女性4割貧困」という見出しに衝撃を受けた。これまで女性の貧困は若い世代か、シングルマザーの問題として語られがちで、高齢女性の貧困にスポットが当たることはあまりないように感じていたからだ。東京都立大学教授の阿部彩教授の調査により、65歳以上の一人暮らしの女性の相対的貧困率が44%にのぼり、現役世代のひとり親世帯(45%)と同じ深刻な水準であることが判明したという。
記事をきっかけに、阿部教授に話をうかがった。
阿部彩(社会政策学者、東京都立大学人文社会学部教授)
マサチューセッツ工科大学卒業後、タフツ大学フレッチャー法律外交大学院で博士号を取得。国際連合、海外経済協力基金、国立社会保障・人口問題研究所などに勤務した後、2015年より現職。貧困・格差論、社会保障論、社会政策を専門とする。著書に『子どもの貧困』『子どもの貧困Ⅱ』(ともに岩波新書)、『弱者の居場所がない社会』(講談社現代新書)などがある。
阿部「朝日新聞がたまたま1面トップで大きく報じましたが、高齢単身女性の貧困は、特に新しい『発見』ではありません。私は20年前から3年ごとに貧困率をいろいろな属性で調査・発表していますので、44%という数値を見て、むしろ『下がった』と思いました。1985年には70%でしたから」
東京都立大学教授の阿部彩教授の調査
阿部彩(2024)「相対的貧困率の動向(2022調査update)」JSPS22H05098, https://www.hinkonstat.net/
貧困ライン
日本における貧困ラインとは、等価可処分所得(世帯の可処分所得〈収入から税金・社会保険料等を除いたいわゆる手取り収入〉を世帯人員の平方根で割って調整した所得)の中央値の半分の額のこと(厚生労働省の定義による)。
『年金分割制度』
婚姻期間中に納めた厚生年金保険料を「夫婦共同で納めた保険料」とみなし、離婚時に分割する制度。2007年に制度開始。
遺族年金
条件を満たせば、死別した配偶者などが受給すべきだった年金の一部を、遺族が受け取ることができる制度。