今年(2024年)4月、文部科学省(文科省)が2018年度からこれまで、中学校の教科書検定で3回不合格としていた2つの歴史教科書を追加合格とした。いずれも令和書籍の歴史教科書であった。
同教科書では第二次大戦末期、日本軍が劣勢にあった沖縄戦において動員された学徒について「志願というかたちで学徒隊に編入」と記述している。また同じく沖縄戦で行われた「集団自決(強制集団死)」についても「逃げ場を失って自決した民間人もいました」と日本軍の加害性には触れていない。これらの内容に対して、実際に動員された沖縄県内の旧制師範学校・中等学校の元学徒兵らでつくられた「元全学徒の会」が即座に抗議の声を上げ、「教科書に平和と真実を求める声明」を発表した。来年度から使用が可能になる教科書である。採択されればこれにより、教育現場から沖縄戦の本質が覆い隠されてしまうと、那覇に本社がある地元の2紙もそれぞれに「実相を踏まえよ」という社説を展開した。
「鉄血勤皇隊」(※1)に所属した父を持ち、沖縄戦の記憶を背負って生きる庶民の姿を描き続けてきた沖縄北部今帰仁村(なきじんそん)の芥川賞作家、目取真俊(めどるま・しゅん)はこの令和書籍の教科書をどう読んだか。事前に送付しておいた当該資料にびっしりと付箋を貼って作家は現れた。
「特攻兵」の出撃後
目取真 特攻作戦に関して「沖縄を守るために、爆弾を持ったまま敵艦に突入する特攻作戦も行われ、二八〇〇人以上の特攻隊員が散華しました」と記述されています。「散華」(さんげ)は桜の花が散るイメージを重ねることで、戦争による無残な死を美化する言葉です。私は鹿児島県の知覧特攻平和会館に2回行きましたが、当時、入館して最初に飾られていたのが、伊舎堂用久(いしゃどう・ようきゅう)(※2)中佐の軍刀でした。伊舎堂中佐は沖縄戦における陸軍特攻隊の最初の飛行隊長です。軍部は沖縄人に特攻の先陣を切らせたわけです。その伊舎堂中佐の軍刀が入ってすぐに展示され、最後の出口の所には琉球人形が飾られていました。沖縄人が率先して特攻作戦に参加し、郷土防衛を担ったような見せ方でした。特攻作戦は沖縄戦の前年、1944年10月のフィリピン戦から始まっていますから、米軍もどういう作戦か分かっているんですよ。米軍機は奄美大島から沖永良部(おきのえらぶ)上空で待ち構えていて、大半の特攻機は沖縄にたどり着く前に撃墜されてしまう。私が子どもの頃、テレビで『あゝ同期の桜』(1967年公開、中島貞夫監督)とか、戦争のドラマをやっていましたが、女子学生たちが桜の花の枝を振り、出撃する特攻機を見送る場面が出てきました。日本人の多くが持つ特攻のイメージですが、ヤマトゥの人たちが見た特攻作戦はそこまでだったわけです。
――軍歌「同期の桜」(西条八十作詞)の歌詞は「同じ航空隊の庭に咲く 咲いた花なら散るのは覚悟 見事散ります国のため」と、殉死することが前提にある。そして確かに特攻を描いたドラマはだいたい出撃で終わりますね。
目取真 一方、沖縄の住民は、その出撃した後の特攻隊員の姿を見ています。米軍が上陸すると住民は山に逃げる。私の祖父母たちは今帰仁の乙羽岳(おっぱだけ)から特攻の様子を見ています。伊江島(いえじま)沖の米軍の艦隊に突入しますが、ほとんど撃墜されるんです。当時40代だった私の祖父が話していたのは、1機だけ米軍艦に当たって、黒煙が上がり、船が撃沈されたと。それを見ていた村の人は「バンザイ三唱」したという話でした。
――目取真さんの小説『風音 The Crying Wind』(リトル・モア、2004年)は、沖縄戦の最中、特攻隊員の遺体が浜に打ち上げられ、それを地元の親子が風葬場まで担いで行って弔うシーンが出てきます。遺体は白骨化し、「泣き御頭(うんかみ)」と呼ばれるその頭蓋骨が鳴らす風音がキーになって、沖縄戦の傷跡を抱える人たち、初恋の特攻隊員の痕跡をたどりたくてやって来た女性など、戦後の物語が連なっていくのですが、自然の美しさと特攻の惨たらしさのコントラストが印象的です。他の作品同様に直接聞かれた話がモチーフになっているのでしょうか。
実相
「実相」1実際のありさま。ありのままの姿。2仏語。真実の本性。『デジタル大辞泉』より一部引用)。
(※1)
太平洋戦争末期の沖縄で、戦闘要員として動員された14~17歳の男子中学生による学徒隊。
(※2)
1920年石垣島生まれ。陸軍予科士官学校卒業。1945年2月に特攻隊の一つである誠第17飛行隊の隊長に任命され、同年3月26日、沖縄戦最初の特攻隊員として石垣島から出撃。慶良間諸島沖でアメリカ軍艦隊に突入し死亡した。
(※3)
1944年10月、フィリピン・ルソン島で大日本帝国海軍によって編成された「神風特別攻撃隊」の一つ。関行雄隊長(海軍兵学校出身の艦上爆撃機パイロット)が率いる敷島隊は、同月25日に零式艦上戦闘機(通称零戦)に250キロの爆弾を搭載して出撃。レイテ島沖でアメリカの空母群に体当たり攻撃をし、空母1隻を沈没させて、特攻攻撃による初の戦果をもたらした。
(※4)
白菊特別攻撃隊。沖縄戦での特攻作戦のため、1945年4月に徳島県の海軍航空基地で、徳島海軍航空隊の隊員など約250人を集めて編成された。鹿児島県の串良海軍航空基地に場所を移し、同年5月24日、偵察員を育成する低速練習機「白菊」に500キロの爆弾を搭載して初出撃。同年6月にかけ、5回に分けて95人が出撃し、56人が死亡した。
(※5)
沖縄本島で1944~1945年にかけ、15~18歳の少年1000人超を集めて結成された遊撃部隊。スパイ養成機関とも言われた陸軍中野学校の出身者が中心となり、第一護郷隊、第二護郷隊の2部隊を編成した。地上戦が始まるとゲリラ戦に投入され、第一護郷隊は多野岳や名護岳、第二護郷隊は恩納岳に布陣して作戦に従事。隊員の約160人が死亡した。
(※6)
1944年10月10日アメリカ軍が南西諸島に対して行った大規模空襲。早朝から夕方まで9時間近くにわたり、のべ1400機近くが総量540トン以上の爆弾を投下した。那覇市街地の9割近くが消失したのをはじめ、各地が壊滅的な被害を受けた。民間人の死者は300人以上とも言われる。
(※7)
沖縄県の名護市と宜野座村にまたがる米軍基地。久志岳を中心とする山岳・森林地帯のシュワブ訓練地区と、辺野古の海岸地域にあるキャンプ地区からなる。総面積は約20.63平方キロメートルで名護市の面積の約10%にあたる。
(※8)
渡嘉敷島の陸軍海上挺進戦隊第3戦隊戦隊長であった赤松嘉次(あかまつ・よしつぐ)大尉のこと。渡嘉敷島住民の強制集団死(いわゆる「集団自決」)への関与は、裁判(2005年に提訴され、2011年に判決が下された通称「大江・岩波裁判」)を通じ事実として認定された。
(※9)
沖縄で地上戦が始まった後、多数の民間人が戦災を逃れて自然壕(ガマと呼ばれる洞窟)や墓所などに避難していたが、旧日本軍は陣地として使用するという理由で壕や墓所を強奪し、民間人を追い出した。戦争経験者から多数の事例が証言されている。
(※10)
1965年、歴史学者の家永三郎が国を提訴した裁判。家永は、執筆を務めた高校日本史教科書の検定不合格を不服とし、文部省(当時)による教科書検定は、憲法が保障する学問の自由、検閲の禁止などに反しており違憲であると訴えた。1965年提訴の第1次訴訟、1967年提訴の第2次訴訟、1984年提訴の第3次訴訟があり、第3次訴訟では最終的に1997年の判決により、数カ所の検定が違法であると認められた。
(※11)
九州南端から南西諸島にかけて自衛隊の体制を強化する日本政府の方針。2010年の防衛大綱で方針が示された後、与那国島(2016年)宮古島(2019年)、石垣島(2023年)などに自衛隊駐屯地が開設されている。