目取真 文科省の検定はさらに後退しています。令和書籍の教科書に一貫しているのは、戦争の悲惨な側面は切り捨て、天皇が治める国のために戦った若者、沖縄の住民という構図を作って賛美することです。昭和天皇が「思はざる病となりぬ沖縄をたづねて果さむつとめありしを」っていう句を残したという文章もある。昭和天皇が沖縄を思い続けていたと美化しています。
しかし『遅すぎた聖断』(琉球放送、1988年)というドキュメンタリー番組で描かれていますが、近衛文麿(このえ・ふみまろ)が戦争の早期終結を訴えた上奏文を昭和天皇は受け入れませんでした。もはや勝ち目がないのは明白なのに、戦争を長びかせて沖縄戦に突き進んだ。さらに、敗戦後も国体護持を最優先し、沖縄を25~50年あるいはそれ以上統治していいというメッセージをマッカーサーに送った。そんなことをやっておきながら、よく恥ずかしげもなくあんな歌を作れるな、と思いますよ。
私の父は、日本が戦争に負けたとき、天皇は「自決」すると思っていたそうです。自分たちは天皇のために死んでもいいと思って戦い、多くの仲間が死んでいった。にもかかわらず、天皇は自決しなかった。そのことへの怒りを何度も口にしていました。昭和天皇がテレビで国民に「ありがとう」と言うと、「ございます」と言え、と毒づいていました。誰のために生きていられるのか、国民に対し敬語を使え、という思いだったんでしょう。
――期せずしてこの6月に判明しましたが、牛島満司令官の辞世の句が2018年から自衛隊のHPに掲載されていました。
目取真 沖縄戦体験者は、自衛隊の背後に旧日本軍の姿を重ねている人が多かった。その自衛隊が自ら正体を露わにしたということでしょう。旧日本軍と同じように自衛隊も沖縄の住民を守りません。一方で、住民の協力なくして自衛隊のみで戦争はできません。沖縄と日本の関係、そして沖縄人の意識、心情は79年前と大きく変わりました。自衛隊の南西シフト(※11)は砂上の楼閣にすぎません。
(了)
実相
「実相」1実際のありさま。ありのままの姿。2仏語。真実の本性。『デジタル大辞泉』より一部引用)。
(※1)
太平洋戦争末期の沖縄で、戦闘要員として動員された14~17歳の男子中学生による学徒隊。
(※2)
1920年石垣島生まれ。陸軍予科士官学校卒業。1945年2月に特攻隊の一つである誠第17飛行隊の隊長に任命され、同年3月26日、沖縄戦最初の特攻隊員として石垣島から出撃。慶良間諸島沖でアメリカ軍艦隊に突入し死亡した。
(※3)
1944年10月、フィリピン・ルソン島で大日本帝国海軍によって編成された「神風特別攻撃隊」の一つ。関行雄隊長(海軍兵学校出身の艦上爆撃機パイロット)が率いる敷島隊は、同月25日に零式艦上戦闘機(通称零戦)に250キロの爆弾を搭載して出撃。レイテ島沖でアメリカの空母群に体当たり攻撃をし、空母1隻を沈没させて、特攻攻撃による初の戦果をもたらした。
(※4)
白菊特別攻撃隊。沖縄戦での特攻作戦のため、1945年4月に徳島県の海軍航空基地で、徳島海軍航空隊の隊員など約250人を集めて編成された。鹿児島県の串良海軍航空基地に場所を移し、同年5月24日、偵察員を育成する低速練習機「白菊」に500キロの爆弾を搭載して初出撃。同年6月にかけ、5回に分けて95人が出撃し、56人が死亡した。
(※5)
沖縄本島で1944~1945年にかけ、15~18歳の少年1000人超を集めて結成された遊撃部隊。スパイ養成機関とも言われた陸軍中野学校の出身者が中心となり、第一護郷隊、第二護郷隊の2部隊を編成した。地上戦が始まるとゲリラ戦に投入され、第一護郷隊は多野岳や名護岳、第二護郷隊は恩納岳に布陣して作戦に従事。隊員の約160人が死亡した。
(※6)
1944年10月10日アメリカ軍が南西諸島に対して行った大規模空襲。早朝から夕方まで9時間近くにわたり、のべ1400機近くが総量540トン以上の爆弾を投下した。那覇市街地の9割近くが消失したのをはじめ、各地が壊滅的な被害を受けた。民間人の死者は300人以上とも言われる。
(※7)
沖縄県の名護市と宜野座村にまたがる米軍基地。久志岳を中心とする山岳・森林地帯のシュワブ訓練地区と、辺野古の海岸地域にあるキャンプ地区からなる。総面積は約20.63平方キロメートルで名護市の面積の約10%にあたる。
(※8)
渡嘉敷島の陸軍海上挺進戦隊第3戦隊戦隊長であった赤松嘉次(あかまつ・よしつぐ)大尉のこと。渡嘉敷島住民の強制集団死(いわゆる「集団自決」)への関与は、裁判(2005年に提訴され、2011年に判決が下された通称「大江・岩波裁判」)を通じ事実として認定された。
(※9)
沖縄で地上戦が始まった後、多数の民間人が戦災を逃れて自然壕(ガマと呼ばれる洞窟)や墓所などに避難していたが、旧日本軍は陣地として使用するという理由で壕や墓所を強奪し、民間人を追い出した。戦争経験者から多数の事例が証言されている。
(※10)
1965年、歴史学者の家永三郎が国を提訴した裁判。家永は、執筆を務めた高校日本史教科書の検定不合格を不服とし、文部省(当時)による教科書検定は、憲法が保障する学問の自由、検閲の禁止などに反しており違憲であると訴えた。1965年提訴の第1次訴訟、1967年提訴の第2次訴訟、1984年提訴の第3次訴訟があり、第3次訴訟では最終的に1997年の判決により、数カ所の検定が違法であると認められた。
(※11)
九州南端から南西諸島にかけて自衛隊の体制を強化する日本政府の方針。2010年の防衛大綱で方針が示された後、与那国島(2016年)宮古島(2019年)、石垣島(2023年)などに自衛隊駐屯地が開設されている。