ベンガルトラが4頭いるところへ、ふた回りほど体の大きなシベリアトラが近づいてくる――そんな動画がSNSに流れてきた。ベンガルトラたちは緊張し、1頭は小走りで逃げた。別の1頭は距離を詰められて後退りし、やがて仰向けになって腹を見せた。
動物にとって腹は急所で、それを晒すのは「降参」「攻撃しないで」のサインとされる。体格差からして勝ち目がないと、すぐ悟ったのだろう。
一方で、イヌやネコが飼い主に腹を見せるのは、安心している証し。その愛らしさから、写真がSNSに上がれば「いいね」が集まる。
同じポーズでも意味は正反対だ。仰向けになったベンガルトラを見て、「シベリアトラに気を許している」とは誰も思わないだろう。
「好意」か「降参」か
この動画からの連想で思い出したのが、松本人志による2024年1月の投稿だ。
「とうとう出たね。。。」
LINEのスクリーンショットが添えられていた。前年末に性被害を訴えた女性が、松本の関係者に送ったとされるもので、「幻みたいに稀少」「松本さんも本当に本当に素敵」「ご縁に感謝します」といった文面が並んでいた。
これをもって女性の「同意なし」という主張を否定し、自身の潔白を示そうとする、松本の意図は明らかだった。「本当に被害を受けたのなら、こんなLINEは矛盾している」と考える人もいて、女性の告発を虚偽と決めつけ、激しい攻撃をくり返した。
一方で、正反対の見方もあった。このLINEは、被害者として自然な反応だというものだ。相手は影響力も経済力も絶大な有名人。怒らせれば何をされるかわからない。だから身を守るため、穏便に済ませるため、あえて好意的な文面を送った、つまりは「迎合」だ、と。
ペットが腹を見せるのとは違う。圧倒的な力を前に「降参」「攻撃しないで」と迎合する――ベンガルトラと同じだ。
被害者が“お礼メッセージ”を加害者に送ることは、「よくあること」と言っても過言ではない。ほかにも、なんらかの形で好意を示したり、加害者から呼び出されてみずから出向いたり、相手が気に入るよう調子を合わせる「迎合」は、性暴力にかぎらず、さまざまな暴力の被害者に共通して見られる現象である。
被害者として「不自然」な行動とは何か
「加害者に迎合するなんて矛盾している、と考える人は少なくないと思います。裁判官ですら、『被害者の行動としては不自然』『拒否したと言っていることと、整合しない』と評価することがあります」
と話してくれたのは、武井由起子弁護士。被害者参加制度のもと代理人をつとめた性犯罪裁判で、被害者と加害者が事件後にSNSでたわいのないコミュニケーションを取りつづけたことが、裁判官から不自然な行動だとみなされた。
ほかにも裁判官は、被害申告が事件から1カ月後と“遅かった”など、被害者の証言には不自然な点がいくつもあると指摘。最終的に、「同意があった」とする男性の言い分どおりであった可能性を否定できない、と結論づけた。
男性に下された判決は、無罪だった。
「代理人をつとめながら、性暴力被害と裁判とは、つくづく相性が悪いと感じました」(武井弁護士)
被害者が“誰もが納得する被害者らしさ”から外れていると、裁判で証言が信頼されない。では、完璧な“被害者らしさ”とはどんなものか。
レイプされそうになったら屈強な相手にも激しく抵抗し、被害の一部始終を正確に記憶し、被害後はすぐさま警察に駆け込み、加害者への激しい憎悪をたぎらせれば、世間も裁判所も「ああ、この人は性交に同意していなかったのだな」と受け取るのだろう。しかし、
「性暴力被害を受けトラウマを負った被害者は、誰もが考える被害者らしい完璧な態度をとることはむずかしい。無理だと言ってもいいでしょう」(武井弁護士)
過酷な暴力を生き延びた被害者が、「あなたがとった行動は被害者としてふさわしいかどうか」をおよそ不可能なスケールで採点される裁判の様子は、聞くだにつらいものがある。
「これは、裁判所が性被害の実態を知らないから起きていることだと考えられます。被害者が行為の最中に、フリーズ(凍りつき)したり解離したり、記憶が飛んだり、あるいは加害者に迎合して自分から性行為に応じているよう振る舞ったり、または後から“お礼メッセージ”を送ったり、加害者にすり寄るような態度をとったり……すべてよくあることです」(武井弁護士)
被害実態を十分に知らない裁判官が、加害者に無罪を言い渡した瞬間、女性の被害は「なかった」ことになってしまう。
「被害者に不利に、加害者に有利に裁判が動いている……相性が悪いですよね。これは日本だけの問題ではなく、トラウマ問題の世界的権威であるアメリカの精神科医、ジュディス・L・ハーマンも『真実と修復』で同じように語っています」(武井弁護士)
解離
性被害のような極度のストレスや恐怖に見舞われたとき、現実から心が切り離される心理的な防衛反応のこと。
