男性だけではなく女性にも深く浸透し、新自由主義が進む中で過激化していくミソジニー。一筋縄ではいかない根深い問題を解決する方法はあるのだろうか。映画や話題のテレビドラマなどを例に、前編に引き続き、河野真太郎・専修大学教授にうかがった。
*本記事中、オレンジ色で示した言葉をはじめ、ミソジニーを理解するために重要な言葉を「ミソジニー関連用語集」で解説しています

河野真太郎・専修大学教授
『クレイマー、クレイマー』と『じゃあ、あんたが作ってみろよ』
――ミソジニーを増幅させる動きが強まっているのだとしたら、それをどのように押しとどめることができるでしょうか。
前編で述べたように、ミソジニーは社会のあらゆるレベルに存在し、私たちの誰もが多かれ少なかれ持っているものですから、「こうすればミソジニーはなくなる!」という特効薬はありません。また、ミソジニーは男性としての欲望と骨がらみに結びついており、ミソジニーの否定は欲望そのものの否定に結びついてしまいます。そこが、男性が自身のミソジニーと誠実に向き合う難しさのひとつで、その困難を抱えているのは僕も含めたリベラルとされる男性たちも例外ではありません。男性にとっては一種の「自己嫌悪」とも呼べる身体性の否定、父子関係の変化に伴い圧倒的な影響力を持つようになった母に対する息子の関係など、さまざまな手がかりがある中で、今回は男性論の系譜からこの問題について考えてみたいと思います。
1970年代、第二波フェミニズムへの応答ともいえるかたちで、自らの男性性(男性が社会で持っている権力性やマジョリティ性、暴力性も含む)を見つめ直す男性たちの活動(メンズリブ)がみられるようになりました。日本でも「男の子育てを考える会」など様々な動きがあり、それらの実践はやがて男性学という学問になっていきます。しかし注目すべきは、ほぼ同時期、「女性が優遇されるようになった社会で男性の権利を回復する」ことを目的とする男性権利運動につながる動きも出てきていることです。これはフェミニズムが盛り上がった国に共通する現象で、その象徴が映画『クレイマー、クレイマー』(1980年日本公開)と言えるでしょう。

映画『クレイマー、クレイマー』(1979年。翌年日本公開)より。親権について話し合うクレイマー夫妻
この映画のストーリーは、ダスティン・ホフマン演じる仕事人間の男性が妻(メリル・ストリープ)に去られ、ワンオペで幼い息子の子育てに奮闘しながら父性に目覚めていく、非常に感動的なものです。一方、『クレイマー、クレイマー』の裏側には強烈なアンチ・フェミニズム的感情が流れていることも見逃せません。たとえば、家庭に無関心な夫との関係や、専業主婦であり続けることに限界を感じ、子どもを置いて家を出ていく妻の行動は「自分勝手」なものとされ、それにより夫がどれだけ苦労させられているかが繰り返し描かれていきます。慣れない育児に翻弄されて仕事上のミスが相次いだ彼は失職から転職するはめになり、妻が起こした親権裁判で妻が自分より稼ぎが良いことを突きつけられるのですが、これはまさにフェミニズムによって女性が力を獲得したことにより、男性が相対的に弱者化されて「割を食う」という、現在のポピュラー・ミソジニーの議論に通じる構図です。
グラデーションはありますが、男性論では男性性の見直しと「男性の権利」回復という二つの流れが並走しながら現在に至ります。両者の分断は解消し難いものに見えますが、まずはそうした対立があると認識した上で、この対立をどう解除するかを考えていかなければならないでしょう。
――男性性ということでは、若い世代の中には、共働き家庭で家事や育児を分担する男性も増えてきています。これはミソジニー解消の兆しと言えるでしょうか。
第二波フェミニズム
18世紀〜20世紀半ばにかけて、女性参政権運動等、公的領域での男女平等を求めた第一波フェミニズムに対し、それらが達成された後、性別役割など私的領域における女性差別の課題を提示、主に1960〜80年代に展開された女性権利運動。