──星子さんが学校に通われていたときは、いかがでしたか。
最首 とにかく、星子の人間関係が少しでも広がるように、と願っていましたね。大事なのは、何かを習ってできるようになることではなく、なるべくいろんな人が「そばにいること」。今この瞬間には誰もいなかったとしても、星子の周りにはたくさんの人がいるんだよ、ということを、私たち親も、星子も感じられるようであれば一番いいなと思っていました。
だから、問題だったのはむしろ、養護学校の高等部を卒業した後でした。学校を出ると、「周りに人がいる場」をつくることが途端に難しくなるんですよ。障害者施設はあるけれど、いわゆる「普通」の、みんなが仕事をしているような障害者施設では、星子の居場所にはならない。それならつくろうと考え、今住んでいる横浜で、1997年に仲間と「カプカプ」という作業所を立ち上げて、私が初代運営委員長になりました。
今では作業所が三つにまで増えて頑張っていますが、この「カプカプ」のモットーは「ザツゼンに生きる」。雑然、ではなくてカタカナなんです。星子も今、週に2回くらい作業所に通っていますが、そこで何をしているかというと、ただ寝転んでいるだけ(笑)。でも、それも労働のうちということで、わずかながらちゃんと給料をもらっているし、周りの人たちから刺激を受けて、それなりに疲れて帰ってきます。他の作業所は、そういうことを許さないでしょ(笑)。星子の居場所にするためには、こういう作業所じゃないといけなかったんです。
障害者総合支援法という法律がありますね。障害者の権利を定めた画期的な法律だといわれますが、その第一条には〈障害者の自立及び社会参加の支援〉という言葉があります。この「社会参加」という言葉に私はカチンと来るんですね。だって、「社会に参加する」ということは、今は「社会外」の存在だということでしょう。星子は社会外存在なのか、帆花ちゃんは社会外存在なのか。冗談じゃない、社会内存在そのものですよ。私はそう思っているんです。
「生きているってすごいこと」だと伝えたい
──障害のある人と「社会」とのかかわりという点で思い出されるのが、2016年に起こった、相模原市の障害者施設「やまゆり園」での殺傷事件です。加害者は「意思疎通の取れない人は社会の迷惑」などと述べており、まさに障害のある人を「社会外存在」とみなしていたように思います。
最首 あの事件では19名の入所者が犠牲になったけれど、現場に建てられた慰霊碑に名前が刻まれたのは、そのうち7名だけでした。みんな名前を出せない、出したくないんですよ。その事情は、私にはよく分かります。つまり、今でも日本社会は、家族に障害があるということを「他人に知られたくない」社会なんです。「プライバシーの尊重」なんていうと聞こえがいいけれど、全然そんなことじゃない。他人に知られるとろくなことがないからです。
たとえば、私は「カプカプ」をつくるのと並行して、統合失調症の予後の方のための作業所の再建・運営にも関わっていました。ところが、「統合失調症の人が事件を起こした」なんていうニュースが流れると、街の空気が一気に凍るのが分かるんですね。「街中にそんな作業所があるなんて危ない」という声が、ぶわっと出てくるわけです。
西村 「やまゆり園」の事件で犠牲になった方たちの実名が出されなかったときには、私も「ああ、やっぱりいまだにそうなんだな」と実感しました。多くの親に「わが子のことを隠したい、知られたくない」という気持ちがあるということが、とてもショックでしたね。もちろん、障害のある人に対する偏見や差別が根強くあるからこそ、家族がそういう気持ちになるんだということはわかっているのですが……。
最首 でも、理佐さんは帆花さんのことを講演などでいつもお話しになっているし、家へも人の出入りが多くて開かれている感じがしますよね。かつて障害のある子の家族が、自ら社会を遮断するように小さく縮こまって生きていたのを思うと、隔世の感があります。
西村 そうですね。小さな頃から親だけではなく、たくさんの人のケアを受けて生きていって欲しいと思っていたので支援の人の出入りも多いですし、お友だちもたくさん来ます。帆花のことは隠したいというより、むしろ、多くの人に知ってほしいという気持ちがあります。それは、帆花のことを我が子ながら心底誇りに思っているからです。
帆花はただ「生きる」ということにどんな時も一生懸命で、必死にいのちをつないでいます。その存在自体を誇りに思う気持ちがまず芽生え、そこからさらに、人間の価値は「何ができる」とか「何ができない」とかで優劣が決まるのではなく、ただその存在自体に等しく重みがあり、私たちが等しく持っている「いのち」そのもの、「生きている」ということ自体に価値があるのだと思うようになりました。帆花のことを知っていただく中で、みんな同じ「いのち」を生きているんだよ、それってすごいことだよ、と伝えたい。それが、私の親としての、大人としての、この社会を少しでも住みやすくしていくための責任なのかなと感じています。
最首悟さん
1936年、福島県に生まれ、千葉県にて育つ。東京大学大学院動物学科博士課程中退。同大学教養学部助手を27年間つとめた後、予備校講師、和光大学教授を歴任。和光大学名誉教授。東大助手時代から公害問題や、障害者と社会の在り方を問い続けている。主な著書に『水俣の海底から』(1991年、水俣病を告発する会)、『星子がいる』(1998年、世織書房)など。
西村理佐さん
1976年、神奈川県横浜市生まれ。大学時代は心理学を専攻し、心理カウンセラーを目指すも断念。同じ病院に勤めていた秀勝さんと院内の交流会で出会い、2003年、27歳の時に結婚。4年後の2007年、帆花(ほのか)ちゃんを授かる。自宅で育てることを決意して以来、病院で秀勝さんと「医療的ケア」の手技を学び、翌2008年の7月に帆花ちゃんが退院。家族3人、自宅での生活をスタートさせる。著書『長期脳死の娘とのバラ色在宅生活 ほのさんのいのちを知って』(発行:エンターブレイン、2010年)を上梓するなど、執筆活動や講演活動も。