最首 おっしゃるとおり、サービスは充実しても、融通がなかなか利きませんよね。使い勝手が悪かろうと、決まっていることは変えられない、と言われる。私も星子が小さいとき、無認可保育所に通わせていたのですが、そこはとにかくみんなで何でもやる、保育士さんが「何でも屋」のような感じのところでした。ところがそれが、認可保育所になると、あっという間に「保育士の仕事はこれ」「仕事の時間は何時まで」と決められてしまう。これでは、一人で生きていけない状態にあるような人は、生命をつなげていくことができません。
西村 もちろん、制度がなかったら私たちはやっていけないですし、制度をつくることもすごく大事です。でも、一つ決まり事をつくるとその枠を守ること、超えないことがいつしか目的になってしまい、個別性は認められず、そこから漏れてしまった人は「わがまま言わないでね」「自分でどうにかしてね」と見放されてしまいます。
最首 この状況を変えていくには、やはりパラダイムチェンジともいうべき社会全体の変化が必要だと思います。人間と人間の関係を主軸に据えて、そこから出発しようよ、ということ。人間というのは、常に何が起こるか分からない生き物です。その人間が暮らしていく社会とはどういうものであるべきなのかを、もう一度考えていかなくてはならない。「帆花ちゃんが生きていけるような社会にしないと、帆花ちゃんが死んでしまう」。そこから出発しなくてはならないんです。
──今の社会は、人を生かすためにケアやサポートをするのでなく、サポートの体制のほうに人を当てはめるような形になってしまっているということでしょうか。
最首 そうですよ。「あんたは背が高くてベッドに入りきらないから、ちょっと足を切ってください」というようなものですよね。それは、誰にとってもしんどい社会です。
私は、理想を追い求めてばかりのキチキチした社会よりも、「だらしなくて漫然と、ごちゃごちゃといろんな人が生きている社会」のほうを目指したい。そうでないと星子は生きられないな、と思ったりしています。
「親なき後」に何を残せるか
──最後に「親なき後」のことについてお聞かせください。障害のある子どもの保護者の多くが、大きな懸念として「自分が死んだ後のこと」を挙げられますが、おふたりはどう考えておられますか。
西村 「親なき後」というのは、私の中にはない言葉です。帆花はまだ中学生だから、もう少し先のこと……という、それだけの意味ではありません。
そもそも、いのちがどうなるかなんて誰にもわかりません。私たち両親と帆花と、どっちが先に死ぬかもわかりませんよね。実は、私と帆花だと、帆花のほうがずっと健康で。帆花の在宅生活を始めてから、救急車に乗った回数は私のほうが多いんですよ(笑)。
そしてもう一つ、私がこの「親なき後」という言葉がちょっと苦手なのは、「親がいる間はこの子は安泰だ」と言っているようなイメージがあるからです。勝手なイメージかもしれないけれど、「この子は障害があるから守ってあげなきゃいけない、親が考えを示して、導いてあげなきゃいけない。だけど、その親がいなくなったら困るからどうしよう」と言っているような感じがするんですね。
まず、子どもは親の所有物ではありません。子どもに障害があっても、意思表示が難しくても、子どもは子どもの人生を自分で歩んでいます。そして、これは、最首さんもご著書などでよく書かれていることですけど、生きるというのは「人と人の間にいる」ということだと思うのです。帆花もたくさんの人と関係を築いて、ケアされて生きられるように、ということを小さいときから目指してきました。帆花を一人の人間として尊重してくれ、帆花と一緒に生きてくれるヘルパーさんをずっと探し続けてきて、いま3人の方がそういうふうに関わってくれています。
もし明日、私が疲れ果てて死んでしまったとしたら、主たる介護者がいなくなるわけですから、「じゃあ、ほのちゃんは施設に入れましょう」という話がきっとどこからか出てくるでしょう。そのときに、今のヘルパーさんたちなら帆花の意思を汲んで「いやいや、そんなことほのちゃんは望んでないよ」と言ってくれると思うし、そうしてくれる人に帆花のそばにいてほしい。それが私の、私たち家族の願いなんです。そういう環境を整える手助けをしておくことが親が生きているうちにすべきことじゃないでしょうか。だから親が死んでからの問題じゃないと思うんです。むしろ私はそれをやり遂げるまでは死ねないし、もっと言えばそれさえやり遂げられれば、私がいついなくなったとしても、帆花はきっと逞しく生きていってくれると信じています(笑)。
最首 私が言いたかったことを理佐さんが言ってくれました(笑)。
最首悟さん
1936年、福島県に生まれ、千葉県にて育つ。東京大学大学院動物学科博士課程中退。同大学教養学部助手を27年間つとめた後、予備校講師、和光大学教授を歴任。和光大学名誉教授。東大助手時代から公害問題や、障害者と社会の在り方を問い続けている。主な著書に『水俣の海底から』(1991年、水俣病を告発する会)、『星子がいる』(1998年、世織書房)など。
西村理佐さん
1976年、神奈川県横浜市生まれ。大学時代は心理学を専攻し、心理カウンセラーを目指すも断念。同じ病院に勤めていた秀勝さんと院内の交流会で出会い、2003年、27歳の時に結婚。4年後の2007年、帆花(ほのか)ちゃんを授かる。自宅で育てることを決意して以来、病院で秀勝さんと「医療的ケア」の手技を学び、翌2008年の7月に帆花ちゃんが退院。家族3人、自宅での生活をスタートさせる。著書『長期脳死の娘とのバラ色在宅生活 ほのさんのいのちを知って』(発行:エンターブレイン、2010年)を上梓するなど、執筆活動や講演活動も。