日本のダイオキシン問題の発端
ダイオキシン類は、1980年代から認識されるようになり、90年代に入り関連報道が急増した。日本人の、母乳中のダイオキシン濃度が高いという報告(91年)、竜ヶ崎のゴミ焼却炉周辺住民の血中濃度が高いという報告(96年)、埼玉県の焼却炉密集地域で新生児死亡率が高いという報道(97年)、所沢の野菜汚染(99年)などである。これに、WHOによる耐容一日摂取量(TDI)10 pgTEQ/kg/日(一日当たり1kgに対し10ピコグラム)の設定(90年)、コルボーンらによる96年「失われし未来」(日本訳は97年)の発刊、WHOによるTDIの1~4pgTEQ/kg/日への強化(98年)など、外国からの情報が重なってもたらされたことにより、日本ではダイオキシン類問題が社会的に大きな関心事となった。
誤認されていたダイオキシンの燃焼由来説
これには、ダイオキシン類の発生源は主に廃棄物の焼却炉で、世界で最も多くの廃棄物焼却が行われているのが日本である。したがって、日本のダイオキシン汚染は最も激しいはずだ、という思いこみがあったと考えられる。盛り上がった世論に対し、政府や国会は「ダイオキシン対策推進基本指針」(99年)や、「ダイオキシン類対策特別措置法」(99年)により緊急対策を進めた。その後、調査・研究が進み、情報がそろってきた現在から見ると、上に記した報道は必ずしも正しくなかったことが分かる。例えば、日本人の母乳中ダイオキシン濃度は、特に高くはなかった。竜ヶ崎の焼却炉周辺住民の汚染も、よく調べると、特に高くなかった。新生児死亡率が高いことも、否定されている。断片的な情報だけで、判断してしまった誤りである。()
農薬で拡散した日本のダイオキシン
さらに、汚染の原因として、廃棄物焼却ばかりが注目されたが、実は60~80年ころにかけて、水田で広く使用された農薬がある。ペンタクロロフェノールとクロロニトロフェンと呼ばれる農薬のことで、高濃度のダイオキシンが含まれていたことが分かっている。これら農薬によるダイオキシン類の環境への放出量は、この間、年間で20kgTEQ程度と見積もられ、本格的な対策が始まる時期(97年)の、焼却由来のダイオキシン放出量年間7kgTEQ(環境省ダイオキシン類排出量目録)を超えるものであった。()
一方、ダイオキシン類の一種であるコプラナーPCBを含有する、PCB製品の使用の最盛期も、60年代後半で、これはカネミ油症事件を機に使用禁止(72年)になっている。
ダイオキシン放出は1970年がピーク
以上のことから、日本のダイオキシン類の放出は1960~70年代に最も多く、その後は減ったことが見て取れる。()東京湾の海底堆積物を分析した研究では、汚染の最悪期は70年ごろであった。また、保存された食事試料の分析からは、77年以降はダイオキシン類摂取が低下してきていること、保存された母乳試料の分析からは、73年以降ダイオキシン類濃度が漸減してきていることが判明している。このようにダイオキシン類による環境や食品の汚染は低下傾向にあり、対策の緊急性は小さかったことが分かってきたのである。
ヒトが健康に有害な因子を浴びることを曝露(ばくろ)というが、ダイオキシンの主たる曝露経路は食事であり、さらにその70~80%は、魚から取り込んでいることが分かっている。すなわち、焼却炉周辺に居住するからといって、曝露量が特に大きくなるとは限らない(焼却炉の労働者では高かった例がある)。
曝露レベルも、平均ではWHO基準の上限(一日当たり4pgTEQ/kg)を下回っており、ダイオキシン類の濃度の高い魚を多食しない限り、基準を超えることはない。他方、政府の対策により、ダイオキシン類排出量は、調査開始(97年)の年約8kgTEQ/から、2004年の年0.35 kgTEQまで、大幅に減少した。
最近の大気中や水中ダイオキシン類濃度は、この対策と並行して低下しているようで、対策の効果が表れている。
ヒトに対するダイオキシン毒性
さて、ダイオキシンは微量でも問題だ、と考えておられる方もいるだろう。ダイオキシン類の毒性影響は、動物の種類によって大幅に違い、ある種の動物に対しては非常に強い毒性を発揮する。ダイオキシン類が「史上最強の毒物」と呼ばれるゆえんである。それでは、ヒトはどうであろうか。工場労働者、事故による曝露者、あるいはダイオキシンを含んだ枯葉剤散布に従事したベトナム戦争のアメリカ軍兵士など高いダイオキシン曝露を受けたと考える人びとに対して、多様な疫学調査が行われてきた。
その中で、糖尿病、ある種のがん、生まれる子供の性比などと、ダイオキシン類曝露との関係が指摘されているが、まだ確定的ではない。多くの高曝露集団について、広範な調査が行われてきたにもかかわらず、因果関係が明確にならないということは、ヒトはダイオキシン類に対してそれほど感受性が高くない(弱くない)ということだろう。
負の遺産をリスクコントロールする
なお、ヒトの感受性が他の動物に比べて低いことは、ダイオキシン毒性の発現機構(身体に影響が表れる仕組み)の研究からも支持されている。したがって、動物実験における、最も低い体内濃度で観察された次世代への影響に基づいた現行の基準、すなわち耐容一日摂取量(TDI)4pgTEQ/kg/日を満たすことで、リスクは低く抑えられていると見なされる。発生源対策が進んだ現在、残された課題は、過去の遺産である。保管され続けてきたPCB廃棄物の処分は、将来のリスク削減に効果的である。また、高濃度汚染場所の浄化や拡散の遮断の対策は、費用効果を考慮しつつ行うことが必要であろう。
ダイオキシン類
ポリ塩化ジベンゾ-p-ダイオキシン、ポリ塩化ジベンゾフラン、コプラナーポリ塩化ビフェニール(co-PCB)の3種の化合物群。
耐容一日摂取量(TDI)
(Tolerable Daily Intake)
人が一生涯にわたり摂取しても健康に対する有害な影響が表れないと判断される1日当たりの摂取量。
TEQ
(Toxic Equivalent)
毒性等価換算係数。毒性の強さを加味したダイオキシン量の単位。ダイオキシンの毒性の強さは、異性体によって異なるので、量当たりの毒性が等価になるように換算して毒性影響を評価して表している。
失われし未来
原著タイトル「Our Stolen Future」