「ひらめき」という思考のプロセス
将棋のプロ棋士は「ひらめき」に基づいて手を指している。彼らは局面を見たほとんど瞬間のうちに、3通りぐらいの候補手が頭に浮かぶそうである。ひらめきは、根拠のない山勘とは異なり、専門家が長年の経験に基づいて身につけた信用するに値する知識の一種である。プロ棋士は一手に何時間も考えることがあるが、それはひらめきの良し悪しを確認している過程と見なすことができる。
3通りの候補手の中から、最善の手を探しているのである。また、専門家のひらめきは多くの場合に正解を導いてくれるが、まれに不正解になる場合もある。そのような可能性を含めて、ひらめきで得た候補手がいいか悪いかを、時間を使って先読みなどによって確認しているのである。
もっとも、プロ棋士のひらめきはほとんどの場合に正しい。すなわち瞬間的に思いついた3通りの候補手の中に、最善手が存在する可能性が非常に高い。ひらめきがかなり外れてしまうような棋士は、プロとしてやっていけないであろう。
人はだれでも[ひらめき」を使っている
「ひらめき」で物事を解決しているのは、なにも将棋のプロ棋士だけではない。漁師も長年の経験から得たひらめきによって、その日の天気や潮の流れから、どこで漁をするか決めている。医者もひらめきで、患者がどの病気なのかを判断している。患者を目の前にして、すべての病気の可能性をしらみつぶしに調べていたら、その間に患者は悪化してしまう。またわれわれ研究者も、ひらめきでどの研究をすべきか判断している。世の中にわかっていないことは無数に存在するので、真面目に選んでいたら一生を終えてしまうだろう。さらには専門家でなくとも、人間は日頃から多くのことをひらめきに基づいて判断している。たとえば今日の昼食をどこで食べるかを熟考していたら、昼休みが終わってしまうので、ひらめきで決めている場合が多いはずである。
ひらめきにおける一般人と超人の違い
このように人間はかなり多くの場合に「ひらめき」でものごとを判断している。そのひらめきがどのように実現されているかを探求することは、人間の知能をよく理解するためにも、あるいはコンピューターにひらめきの能力を持たせるためにも、非常に興味深い研究テーマである。筆者も将棋プロ棋士に着目して、ひらめきでどのように指し手を選んでいるかについて心理学的な実験を実施してきた。羽生善治第66期名人を含む、プロ棋士、アマチュア上級者、アマ初級者に将棋の局面を見せてその局面を記憶してもらって、記憶にかかった時間を計測し、その間の視線の動きを記録した。
その結果を分析したところ、プロ棋士は、非常に短い時間で正確に局面を記憶し、記憶にあたっても駒一つ一つを見ることなく、全体として記憶していることがわかった。めちゃくちゃな局面を見せた場合は、プロ棋士もアマ初級者なみにしか記憶できないことから、プロ棋士はアマに比べて記憶能力が一般的に高いのではなく、経験で身につけた知識が適用できる局面に対してのみ高い記憶能力を示すことがわかった。
他の実験などの結果を合わせることによって、将棋プロ棋士は経験上でよく出てくる局面のパターン、およびよく出てくる手順のパターンを、チャンクと言われる記憶の塊として記憶していることが明らかになった(注)。
ひらめきのメカニズムは解明できるか?
心理学的に将棋プロ棋士の記憶の機能については、ある程度のことがわかったのだが、その機能が脳のどこでどのように実現されているかについてはわかっていない。その解明を目指して、理化学研究所、富士通、日本将棋連盟による「将棋における脳内活動の探索研究」の共同プロジェクトを進めている。fMRI(機能的磁気共鳴画像法装置)という、血液の流れを脳の外から読み取る医療装置を用いて実験をする。プロ棋士やアマ初級者の被験者は、横になってこの装置の中に入り、詰め将棋の問題や、指し将棋の局面の一部を見て考えて答えを出す(指し手を決める)。
そのときに脳のどの部分が、どのタイミングで活性化しているかを調べるのである。まだこのプロジェクトは進行途中であるが、将棋プロ棋士は将棋の局面を見た瞬間に、頭頂連合野といわれる部分が活性化していることがわかっている。アマ初級者が同じ局面を見ても活性化しないことや、プロ棋士も将棋と関係ないものを見たときは活性化しないことから、この部分が将棋プロ棋士の将棋に関するひらめき的思考に関係している可能性が高いと思われる。またこの部分は空間認知に関係しているので、ひらめき的思考と空間認知に関係があることも示唆される。
将棋という題材は、ひらめきを研究する対象として優れている。ルールが明快かつ単純であり、ひらめきで得た結論も指し手という情報に集約されているからである。
このプロジェクトをきっかけにして、近い将来に羽生名人という現代の天才のひらめきの機能が解明されること、さらには一般の人間のひらめきの機能が解明されることを期待したい。
注
詳しくは『先を読む頭脳』(羽生善治、伊藤毅志、松原仁共著 2006年8月 新潮社刊)参照のこと。
fMRI(functional Magnetic Resonance Imaging)
機能的磁気共鳴画像法装置。磁気共鳴画像装置を用いて脳機能を調べるための装置。脳のある部分が活動すると、その部分に酸化ヘモグロビンが多く供給されるので、酸化ヘモグロビン濃度分布を計測し画像化して、脳の部位と機能の関係を調べる。実験は4テスラの磁場がかかった暗室内で行う。(テスラ