科学離れは何をもたらすのか?
理工系の現状に関して、危機感を持つ人々は少なくない。確かに高等学校でも、文科系など非理工系の学部に進学を志す生徒たちは、理工系の生徒から切り離され、大学入試科目でも、理工系の科目には一切かかわらずにすみ、大学へ入っても、一般教養科目で悩まされることもない。つまり、およそ理工系の学問に触れることなく、社会に送り出される学生が、人口の相当部分を占めることは、日本社会の抱える大きな問題であると私は思う。しかし、それは必ずしもノーベル賞につながるような研究者が今後も輩出するかどうかとか、技術的なイノベーションが今後も活発に生み出されるだろうか、というような問題意識からではない。では何が問題なのか、それをここでは明らかにしようと思う。
専門知識人に依存する社会システム
現代社会は、科学や技術の研究の成果が、社会の構成員の生そのものを、よくも悪くも、いや応なく束縛し、支配する社会である。行政も産業も、科学や技術の研究・開発の結果を、できる限り効率よく利用しようと懸命である。行政や産業は、社会全体のあり方に、強大な影響力を持っているから、それらの力を通じて、科学や技術は社会の隅々まで、浸透することになる。そして、少なくともこれまでは、そうした事態にいたる過程で、すべては専門家の意志決定に依存し、社会の一般の構成員はほとんどその意志を反映される機会のないままに、受動的にその事態を受け入れることで済まされてきた。典型的な例を、原子力の平和利用に見ることができる。原子力発電は、昭和30年代、政治家、事業者、そして学者という専門家の発案と計画に基づいて、導入が決定され、かつ実施されてきた。それによって、日本の電力は、安定的に供給されるようになるばかりでなく、様々な点で社会全体が利益を受けてきたことは否めない。
原子力はなぜタブー視されるのか
にもかかわらず、原子力発電は日本社会に完全に受け入れられ、根付いたとは言えない事態が続いている。日本の高い技術力によって、1979年のスリーマイル島事件や、まして86年のチェルノブイリ事件のような危機は一度も起こらず、原子力発電サイトでは、原子力技術が直接からむ事故によって亡くなった方は、一人も出していないにもかかわらず、人々はどこか不安の感覚を捨てきれず、根強い反対論も残っている。その理由の一つは、導入から実施の過程のなかで、一般社会の人々が意志決定に参画する場所も機会も与えられなかった、という事実にあるのではないか。もちろん、その後、公衆を対象にした円卓会議やヒアリングは、行政によっても事業者によっても、活発に行われてきた。しかし、それは事が決まって、走り出してから後のことで、開発の「上流」で行われたわけではなかったのである。
専門知識にコモンセンス(良識)も
これを他山の石として、例えば今、北海道では「遺伝子組み換え作物育成」の圃(ほ)場を認めるかどうかというような問題に関して、つまり「上流」の段階で、非専門家である公衆の意見を反映させるための、様々な仕掛けが工夫され、実施されつつある。しかし、それは単に社会の構成員の意見を聞く、というところにだけ意味があるのではない。そもそも専門家は、専門の立場から物事を判断する。その判断の根拠となるのは、専門的知識である。そして専門的知識が、専門的問題がからむ問題に動員されるのは、しごく当然のことである。しかし専門的知識だけで、社会全体にかかわる問題が決定されてよいのか。より広くより多角的な知識も、必要とされるのではないか。そして、非専門家の人々の間に存在する良識や賢慮もまた、社会的意志決定のために、利用される必要があるのではないか。
まったくジャンルは違うが、実は裁判員制度の導入も、結局は同じ問題意識から生まれたものである。法廷は法律の専門家だけで構成される特殊な空間であった。判決を下すのに、彼ら法律の専門家の知識と判断だけで十分なのか、という疑問がこの制度を支えている。
未知を前にして判断停止をしないこと
話を戻すと、科学や技術のからむ社会的な課題の意志決定に、一般の社会の構成員、つまり非専門家も加わるとすれば、そういう人々が持つべき素養として何が求められるだろうか。物理学の基礎方程式を、しかるべき条件の下で解くことだろうか。化学製品の詳しい構造式を記憶していることだろうか。無論、いずれもできることにこしたことはないが、非専門家としてそれらが熟知されていなくても、何も問題はない。
問題なのは、社会的な課題に直面したときに、そこにからむ科学や技術の内容にまったく関心も理解もなく、したがってただ途方に暮れる、というような状態であることだ。そのような状態では、健全な常識や賢慮を働かせる余地が生じないからである。
科学リテラシー(科学的理解力)とは
科学的な健全性と非健全性とを識別する力、例えば、テレビの番組で問題になったような、科学めかしてその実、愚にもつかない内容のものを、明確に退ける能力、科学はどこまで発言でき、どこから先は科学の立ち入れない領域か、という点を、見分けることのできる力、そうした力を、学校教育のなかでも養うべきだし、日常においても、日ごろ、身近に溢れている情報に関心を持ち、理解しようとする姿勢を持ち続けることで養うことこそ、最も大切なことではなかろうか。科学教育において、最も望まれることは、一人二人のノーベル賞受賞者を生み出すこと(無意味とは言わないが)ではなく、社会全体の、あるいは社会の構成員一人一人が、科学や技術に、相応の関心と理解を示し、健全な常識と賢慮を持つように努めることにあると、私は信じる。