遺伝情報とは何か?
農産物や園芸植物を品種改良するには、近縁種や異なる系統の個体同士を交雑させて、新たな品種を開発したり、人為的に突然変異を起こさせて、有用な品種を選び出す方法が採られている。しかし、たいてい有用な品種は別の生物の遺伝子から得ている。将来、どの遺伝子が、あるいはどの品種がどのように役立つのかは、すぐには判明しないにしても、こうした多様な遺伝系統の集まりは、潜在的な価値を持つ資源である。これを遺伝資源と呼ぶ。
有用物質を作る遺伝情報を解読する
薬草などの野生生物には、薬や化粧品、園芸植物などで使うことができる有用物質がある。その生物には、その成分を作り出す遺伝子が含まれており、その遺伝子を取り出すことができれば、有用物質を人工的に生産することも可能となる。遺伝子とはDNA配列という情報であり、その情報を持つ生物は有用物質を作り出す可能性がある。ただし、実際に有用物質を特定し、どの遺伝子がその物質を作っているかを突き止め、その遺伝情報を解読することができれば、食料としての生物資源や化石燃料などとは異なり、大切なのは遺伝情報であって、どれほど利用したところで減少するものではない。
遺伝情報とは、いわば秘伝の料理の食材ではなく、調理法に相当する。重ねていえば、遺伝資源とは、そのような秘伝の調理法自体ではなく、その参考になり得る別の料理の集合にほかならない。
つまり、遺伝資源とは、潜在的に有用な遺伝子を含む多様な遺伝子の宝庫である生物の集合、あるいはそれらが持つ遺伝子の総体(遺伝子の供給源)を指す。これは、必ずしも野生生物でなくてもいいし、ウイルスでもかまわない。
資源原産国と開発技術を持つ国との利益バランス
品種改良と同様に、有用物質を人工的に作り出そうとしても、あるいは新たに最初から合成しようとしてもなかなか有用な物質にはならない。しかし野生生物の遺伝資源は、潜在的な有用物質の宝庫である。その多くは実際に途上国などで薬草として利用されている野生生物のなかにある。この薬草から遺伝資源を抽出して薬品を作れば、開発した製薬会社は莫大な利益を得ることになる。ところがその利益は、薬草の生えていた原産国には還元されにくい。
野生生物は自然物であり、著作権も特許もない。このような場合、もし人工物ならば作者に莫大な印税とか特許料が支払われるだろう。しかしその野生生物の原産国が、自然をないがしろにし、その自然をなくしていたら、その遺伝資源を利用することが不可能であったはずである。だから、遺伝資源を持つ原産国に利益を還元すべきであるという議論は、そこから生まれる。
ところが野生生物の遺伝子のどの部分から、有用物質が得られるかはすぐにはわからない。また、生物からそのすべての遺伝情報を解読するには、かなりの費用も要する。そこで、製薬会社などでは、将来、有用物質の遺伝情報が得られる可能性がある野生生物の標本を大量に保管することになる。こうした生物標本の総体も、遺伝資源である。
遺伝資源の利用と利益の公平な分配
生物多様性条約では、「生物多様性の保全」「生物多様性の構成要素の持続可能な利用」「遺伝資源を利用から生じる利益の公正で公平な配分」という3つの原則がある。この3番目の原則(第3原則)が、さまざまな生物の遺伝資源を今日まで保有していた原産国に対し、利益を配分することを意図している。潜在的に有用といっても、有用なものは遺伝資源のごく一部であると考えられ、無用な標本の取得にまで対価を払えというのではなく、集めた遺伝資源のなかから有益な遺伝情報が得られた場合には、その利益の何割かを原産国に配分するよう、標本を集める際に契約するという形になるだろう。
しかも生物多様性条約は、条約がその契約内容を決めるのではなく、利用国の企業と原産国の当事者間で契約を結ぶよう促している。結局は、具体的ルールは各国の国内法で定められる。その国内法に国境を越える効力を認めるかどうかが、生物多様性条約において検討されている。
条約によって、利益の公平な分配は守られるのか?
具体的な契約内容や適用範囲については、さまざまな場合が想定される。たとえば、薬草の遺伝情報そのものではなく、そこから得られた物質を化学合成で別の派生物に変える場合がある。また、薬草の遺伝情報を遺伝子組み換え技術により別の遺伝情報に変えて、そこから有用な派生物を作る場合がある。また、条約発効前に採取した標本から、発行後に新薬が開発されることもある。
製薬会社の側からは、この第3原則に強い異論がある。アメリカが生物多様性条約を批准していないのは、第3原則に反対しているためといわれる。
他方、COP10で合意された「名古屋議定書」は上記のような形態のため、かえって多くの限定が付けられており、また、途上国が利用国となる場合も多く、そのときは他国の法令の効力を受け入れなければならなくなるため、必ずしも途上国の有利にはならないと、上智大学の磯崎博司教授は指摘する。
過去にも「持たざる国」の利益になると期待し、「持てる国」の反対を押し切って導入されたものの、結局は「持てる国」の利益が維持された制度があった。国連海洋法条約による排他的経済水域(EEZ ; exclusive economic zone)である。たしかに日本などは、遠洋漁業で他国の近くに操業しに行けなくなったが、アメリカは世界一のEEZ面積を持ち、日本も7位といわれる。多くの途上国は狭いEEZしかないという事実が、条約の意図とは異なった結果を導いた例として銘記しておかなければならない。