小さくシンプルでありながら驚くべき力を秘める昆虫の脳。そして、昆虫たちが見せる驚くべき身体能力の数々。先端テクノロジーとの融合で昆虫にアプローチすることは、自然が脳を作り上げたルールを解き明かす道に通じ、テクノロジーの新たな飛躍につながる。
昆虫の脳をモデルに脳の謎に迫る
自然が何億年もの歳月をかけて作り上げた「脳」。この仕組みを解明するため、昆虫の脳をモデルにすることには、三つの利点が挙げられる。1点目は、脳の神経細胞であるニューロンの構造や情報伝達の仕組みは、基本的に昆虫もヒトも同じで、しかも昆虫の脳のニューロン数は100万個以下と、ヒトに比べて約10万分の1しかないため、全体像を捉えやすい。
2点目は、脳への感覚情報入力に対する出力である行動がシンプルで、明瞭なので、神経回路の働きを把握しやすい。
3点目は、カイコガやミツバチ、ショウジョウバエなど、ゲノム解析が完了した昆虫も多く、遺伝子工学の観点からもアプローチできる。
昆虫とロボットの融合で見えてくるもの
昆虫の“脳力”を検証するためにロボットを利用するという、一見ミスマッチな実験が実施されている。その一つが「昆虫操縦型ロボット」だ。カイコガのオスの触角は、メスのフェロモンを高感度で嗅ぎ分ける。フェロモンは空中では不連続な匂いの塊として存在し、オスはこの塊に遭遇すると、羽ばたきをしながら、それに向かって直進する。そして、塊の存在を見失うと、今度はジグザグ歩行を始め、それでも見つけられないと、回転歩行に変える。カイコガのオスは匂いの塊に遭遇するたびに、この一連の3種類の行動パターンを繰り返し、フェロモン源に着実に近づいていく。
昆虫操縦型ロボットは、自由に回転する球の上にカイコガのオスを “玉乗り状態”になるように固定し、移動しようとして脚を動かしたときの球の回転をタイヤの動きに変換するものである。実際にフェロモン源を置けば、昆虫操縦型ロボットはほぼ確実にフェロモン源にたどりつき、一連の3種類の行動パターンも再現される。
さらに驚くことがある。このロボットに仕掛けを施し、左右のタイヤの一方だけが速く回転するようにすると、ロボットは最初は片側に大きく回転してしまう。ところが、異変に気付いたカイコガは、ほんの1~2秒で脚の動かし方を変え、ロボットが直進するように動きを補正し、見事フェロモン源に到達する。
昆虫は本能や反射に基づいて行動していると思われがちだが、環境や状況の変化に応じて、行動を補正する能力を持っているのだ。カイコガの場合、通常は視覚情報を使って自分の動きをモニタリングしつつ、異変が起こった際には、視覚情報をフル活用して行動を補正している。現在開発されているヒューマノイドロボットや災害救助ロボットなどの場合、急な環境の変化に対応することは難しい。しかし、こうした“脳力”を解明することで、その弱点を克服したロボットが作れるかもしれない。
さらに、カイコガの脳の信号を使ってロボットを操縦する「昆虫脳操縦型ロボット」、すなわち、頭がカイコガ、本体がロボットという「昆虫サイボーグ」による実験も実施されている。フェロモンの匂いセンサーとなる触角と視覚センサーとなる複眼、そして情報処理装置の脳をそのまま使い、脳が胸部の神経節に送るはずの指令信号をロボットの制御回路に直接入力するようにしたもので、脳からの信号をリアルタイムに計測しながら、その信号でロボットが動くわけだ。
昆虫脳の再現に挑む
数々の実験データをもとに、カイコガの脳をすべてコンピューター上に正確に再現し、それによってロボットを動かす「昆虫脳モデル操縦型ロボット」の開発も計画されている。現在、カイコガの脳のニューロン1個1個の神経応答と特別な顕微鏡を使って調べ上げた3次元画像をデータベース化する作業が進行中で、神経回路の詳細を調べ上げ、電気信号がどのような経路で伝わっているのか明らかにし、脳の神経回路モデルをコンピューター上に再現しようとしている。2011年9月現在、カイコガの脳のニューロンのデータベースには、約1800個の登録が完了した。その一部は「無脊椎動物脳プラットフォーム」(http://invbrain.neuroinf.jp/modules/htmldocs/IVBPF/Top/index.html)でも一般公開されている。当面はこれらのデータを用いて、1万個くらいの規模に拡張して神経回路の再現を目指すが、将来的には、昆虫脳の神経回路モデルの高精度化を図り、本物の脳に近づけていく計画である。
スパコンや遺伝子操作を総動員
とはいえ、通常のコンピューターの性能では、たとえ昆虫といえども、実際の脳の働きを再現することは不可能だ。たとえば、カイコガのフェロモン源探索行動の一つであるジグザグ歩行のパターンを作る神経回路は約400個のニューロンでできているのだが、一つひとつのニューロンの複雑な形を反映させて、その働きをリアルタイムでシミュレーションするのはスーパーコンピューターでも難しい。しかし、現在世界1位の性能を誇る次世代スーパーコンピューター「京」を用いれば、この高度計算処理が実現性を帯びてくる。現在、「京」の中にカイコガの脳を構築し、オスが見せるフェロモン源探索行動をシミュレーションし、脳の働きを再現しようというプロジェクトが発足しており、準備が進んでいる。このような研究から、脳の働きをコンピューターでシミュレーションして、変化する脳の働きを明らかにするとともに、損傷を受けた脳の機能を修復する技術の開発を目指している。
一方、遺伝子操作も有効なツールである。カイコガのゲノム解析はすでに完了している。そのため、特定の匂いに反応する受容体(たんぱく質)を作る遺伝子を、フェロモンに反応するセンサーに発現させれば、その特定の匂いを探索するカイコガを作り出すこともできる。麻薬や爆薬などに反応し、それを探索するカイコガを誕生させられれば、探知犬のような訓練も不要で、飼育コストも大幅に低減できる。
加えて、昆虫の触角の匂いセンサーを作る受容体の遺伝子が数多く明らかになってきている。昆虫の触角ほど高感度な匂いセンサーは開発されていないが、遺伝子工学の技術により、同様の匂いセンサーを人工的に作ることも可能になってきたのだ。特定の匂いに反応するセンサーと、それを搭載した匂い源探索ロボットの研究も始まっている。
昆虫脳を研究する本当の意義
人間は寒ければ服を着たり、暖房したりするなど、自然と対峙しながら生きてきた。一方、昆虫は高感度なセンサーを身にまとい、常に環境の変化に迅速かつ柔軟に対応しながら、自然とうまく一体化することで生き延びてきた。それが、本来の生物の姿なのではないだろうか。人間は自らを万物の霊長と名乗っているが、昆虫に限らず、すべての生物にはその生物ならではの視覚や嗅覚、聴覚が備わっており、それぞれが人間とは全く異なる世界を生きている。そのことを我々人間は、謙虚に受け止めるべきだと思う。人間の目線だけで物事を見て、判断するべきではない。
我々人間が引き起こした地球環境破壊が深刻さを増す中、今、昆虫から学ぶべきことは非常に多いのではないだろうか。
(第2回終了)