子どもたちの理科離れは本当か
「理科離れ」という言葉があります。子どもたちが理科に関心を失い、理科という科目が嫌いになり、理系に進学しなくなることを言うようです。「理科離れ」、本当に起きているのでしょうか。2006年の国際学習到達度調査(PISA)によれば、世界57カ国・地域、約40万人の15歳児の中で、日本は科学的リテラシーが6位という結果が出ています。この結果は、悪くないと思うのですが、03年の時の2位から順位が下がったことと、読解力が低いことが問題とされ、それまでの「ゆとり教育」を方針転換するきっかけになりました。また、この時同時に行ったアンケートで、日本の高校1年生の科学への関心の低さも問題視されました。しかし、本当に子どもたちは「理科離れ」しているのでしょうか。
私は、大学で「科学コミュニケーション」という分野の教育や研究を行っています。この分野は、まだ新しく、日本では05年に、大学で本格的に研究が始まりました。「科学コミュニケーション」とは、科学について、科学者だけでなく、場所も研究室の中だけでなく、様々な人が考え話し合ってみようという活動です。私自身も、科学について、小学生から大人まで、学校だけでなく、書店の中のフリースペースや喫茶店など、いろいろな場所でコミュニケーションすることがあります。その時感じるのは、子どもたちは日常の不思議を「なぜかな?」と思い、探求したり、試してみたりする能力が高く、理科を楽しむ力があるということです。「理科離れ」は、理科が受験の一科目になり、忙しくて科学がなんだったか考えるのを忘れてしまった大人に起きている問題なのではないかと思います。
大人にこそ「科学コミュニケーション」が必要
ところで、大人になっても「理科」(科学)は必要なのでしょうか。2011年3月11日、東北から関東にかけて巨大な地震が襲い、1万8000人を超える死者と行方不明者が出ました。それまでも、しばしば強い地震に見舞われてきた東北地方では、建物の倒壊が少なく、犠牲となった人のほとんどは津波による被害で亡くなっています。加えて、津波がきっかけで起きた原子力発電所の事故により、町や村ごと大勢の人が避難を余儀なくされています。
あの日以来、多くの人が改めて、科学や技術について考えてみたのではないでしょうか。日本では50年前から地震の予知が研究されてきました。しかし、あれだけの広域にマグニチュード9の地震が来ることも大津波が来ることも、想定されていなかった。想定される以上の地震や津波が来たときに、原発の冷却機能がストップすることも想定されていなかった。学者の中には、そういう意見を持っていた人もいたかもしれませんが、その考え方は広く社会と共有されていませんでした。
ここで、私は「社会と共有」という言葉を使いました。東日本大震災以降、地震に関係がある学会では、「阪神・淡路大震災は予測可能だった」(名古屋大学減災連携研究センター鈴木康弘教授 12年10月6日日本地理学会)のように、地震予知に対する研究者の反省の弁が聞かれます。
一方で、西暦869年に起きた貞観(じょうがん)地震は、マグニチュード8.3以上で、巨大な津波が東北地方を襲ったという研究成果は、研究所の広報から発表されただけでなく、2006年頃から新聞各紙でもたびたび報道されていました。東京電力が08年には福島第一原発に10メートルを超える津波が来るかもしれないと想定していたことは、政府の事故調査・検証委員会で明らかになっています。
ここに挙げた3つの例から私が言いたいのは、「科学」や「技術」の成果を社会に生かしていくには、社会との共有、つまり研究者だけでなく、われわれ社会全体でのコミュニケーションが不可欠だということです。
東北や関東地方に比べ地震が少なかった大阪・神戸では、地震に対して建物の備えが十分ではなく、阪神・淡路大震災では多くの方が建物の倒壊と火災により亡くなっています。地震が起きるメカニズムの研究者や阪神地域の都市工学や建築の専門家が地震の前によく話し合っていれば、被害は抑えられたでしょうか。それだけでは十分でありません。家を建て直したり、火災に強い町につくり直すには、地域の住民たちが危機意識を共有することが不可欠です。
貞観地震については、「すごい地震が数百年から千年に一度ぐらい来るぞ」ということが知らされても、それを目前に迫っていると考え海岸から数キロ内陸に人々が移転するかどうかは、広い地域の人々がよく考え決断しなければなりません。東電の原発の場合も同じです。ひとたび大きな事故が起きれば広範囲の人が危険にさらされ、影響が国外にまで及ぶこともあるわけですから、地震や津波の可能性からどの程度に備えをするかは、東電の経営者や技術者だけが考えることではなく、周辺地域の住民、電気を使うみんなで情報を共有し考える問題です。
これらの問題を考えるとき、活断層の知識、建物の耐震構造や都市工学、都市計画の知識、リスクという概念の考え方、放射性物質の健康影響や原子力発電の仕組みと危険性、代替エネルギーの可能性について、すべてに詳しい専門家はいません。専門家同士もコミュニケーションをとり、そして最終的にどう行動するかを決める私たち自身が、よく理解しなければなりません。4兆円あまりの科学技術予算の成果をよく活用する責任は、研究者だけでなく、われわれにもあるのです。
科学と一般の目線をつなぐサイエンス・カフェ
とはいえ、学校を卒業してしまった大人が、いきなり科学に親しめ、勉強しろと言われても、どこから何を始めていいかわかりません。もちろん、震災や原発事故、エネルギー問題について関心を持ったことを、新聞やテレビのニュースを元にコツコツ見識を高めていくというやり方もあるでしょう。自分の知らない科学の分野についても、専門家や他の参加者と会話を楽しみながら気軽に学べるイベントがあります。サイエンス・カフェです。科学技術コミュニケーション研究が本格的に始まった05年以来、サイエンスカフェというイベントが、日本各地で行われるようになりました。今では、日本中のどこかで毎日複数のサイエンス・カフェが開催されています(サイエンスカフェ情報 http://scienceportal.jp/scicafe/)。そこでは、一般の人の目線を研究とつなぎ、参加者と研究者が対話しながら科学を楽しむための様々な工夫が凝らされています。
「科学」とは、歴史をさかのぼると源流は哲学にあり、学術的な「知識」をさすこともありますが、広い意味ではその知識をつくってきた人間の思考様式全体のことを言います。最初の方に書きました。子どもたちは、日常の不思議を「なぜかな?」と思い、探求したり、試してみたりする能力が高いと。私の息子が、ある夜、興奮してベッドから飛び起きてきました。「ママ、1、2、3、4、って数えていって、9まで行ったら、またゼロに戻るんだよ。そしてまた1から始まるよ」。9の次はなぜ10なんだろうと、布団の中でずっと考えていた彼が、10進法という仕組みに自分で気づいた瞬間でした。進法について、そういうものなのだと、深く考えてみたこともない人もいるでしょう。しかし、「このものの考え方は何なんだろう」「どういう仕組みがそこにあるのだろう」と考えに考えて発見した彼の目はキラキラ輝いていました。まさにこれこそ科学を楽しむ力なのだと、数字は道具にしか使っていない大人の私も感動しました。
今や、科学コミュニケーションは、社会の課題を解決し、科学技術とわれわれが折り合って暮らしていくために必須のものだと考えます。しかし、科学は、膨大な知識に精通する苦行ではありません。いつの間にか疎遠になってしまった理科の本来の楽しさ、「この世界の理(ことわり)を考える」、この喜びを分かち合う機会として、科学コミュニケーションは楽しいものでもあるのです。