「言葉の起源」を考えるには
言葉とは、心の中に概念としてイメージできる要素をさまざまに組み合わせて、新しい概念を構成し、自分や他人に伝達することのできる道具だ。心に浮かぶ要素の一つひとつは、単語に相当する。だから、いろいろな単語を一定の規則で組み合わせて新しい表現、無限の表現ができるのが言葉だ。こう考えると、人間以外に言葉を使う動物はいない。人間だけが言葉を持っているのだ。「言葉の起源」は、「言葉の進化」とは意味が異なる。起源とは、存在しなかったものが存在するようになることであり、進化とは、存在するものが世代を超えて変化することだ。人間はもう言葉をしゃべっている。だから人間をいくら研究しても、そもそも言葉が始まった理由はわからないだろう。現在の人間の研究からわかるのは、言葉をしゃべるための仕組みに過ぎない。
人間を使わずに言葉の起源を研究するにはどうしたらよいのか。人間のあらゆる形質(特徴)は動物と連続している。しかし、言葉を持つのは人間だけだ。この不連続を、進化的な連続から説明するにはどうしたらよいだろうか。
こういう場合、「前適応説」が有効である。前適応説とは、動物の形質には本来進化的に想定されなかった機能も出現し得る、という考え方である。たとえば、鳥の羽はもともとは「飛ぶ」ことが適応的であったのではなく、「暖かい」という機能が適応的であったと考えられている。羽が十分生えてきたところで、「飛ぶ」という機能が新たに生まれてきたのだ。
これと同じように、言葉は、ほかの機能のために進化してきたいくつかの形質が組み合わさることで、まったく新しい機能として生まれてきたものではないだろうか。
小鳥と人間の類似点
ではどういう機能が組み合わさって言葉になったのだろうか。言葉の特徴をじっくり考えると、ヒントが見えてくる。まず、言葉で大切なのは「組み合わせが作れる」というところだ。人間以外の動物たちも鳴き声でいろいろな意味を表現している。しかし、鳴き声を組み合わせることのできる動物は少ない。
例外の一つが小鳥だ。小鳥のオスのさえずり(歌)は、少数の要素をさまざまに組み合わせてうたわれる。幼鳥のさえずりを分析すると、成鳥のさえずりの一部をフレーズとして切り取り、自分なりにつなぎ合わせて新しい“歌”を作っていることがわかる。ただし、どんなに複雑なさえずりも、表現しているのは「求愛」という一つの意味だけだ。小鳥がこんなことをするのは、さまざまな組み合わせを作ることが、過剰なエネルギーの表現であるとしてメスに好かれるからである。余分な行動は、その個体がどのくらい子孫を残せるかの指標になるのだ。
人間でも、生活に直結しない「余分な行動」をプロにまで仕上げたひとはもてるだろう。芸術家とか音楽家とか小説家とか、そこまで行かなくとも、駅前で歌をうたって、まあまあ人垣ができてくるようになると、きっともてると思う。芸術が無意味だと言っているのではない。無駄な行動が異性の評価を受けることにつながるのだ。それが美的評価になり、そして美が独立したものが芸術だと思う。説明のための余談であった。言葉の話に戻る。
次に言葉で大切なのは、「新しい音が学べる」(まねして発音できる)ということである。新しい音を学ぶことができる動物はごく限られていて、人間と小鳥、そして鯨くらいしかいない。鯨でも小鳥でも、同じ種類の動物がうたっている求愛の歌をまねしてうたっているのだ。むろん、イヌやネコもしゃべるって言うひともいる。でも、イヌやネコは飼い主のイントネーションに少しだけ似た音を出し、それを飼い主が誇大評価しているのがほとんどだ。イヌやネコは、たとえば「こんにちは」とはっきりと言うことはできない。でもオウムや九官鳥にならできる。かわいがって飼育してあげれば、スズメだって「こんにちは」とはっきり言える。ここが小鳥のすごいところだ。
こうやって考えてみると、小鳥の歌には人間の言葉と共通する特徴が二つも含まれていることがわかる。組み合わせを作ることと、他者から学ぶこと。だったら、人間の言葉も小鳥の歌のようなものから生まれてきたと考えてみたらどうだろうか。こう考えて作ったのが、「言語の歌起源説」である。
「言語の歌起源説」とは
言語の歌起源説の概略は次のとおりだ。人間の祖先は、言葉を話す前から、歌で求愛する類人猿の一種だった。彼らは人間になる以前から、いろいろな事物を鳴き声や手の動きで示していたから、彼らの世界はたくさんの意味にあふれていた(「意味」の進化)。彼らは異性を誘うときにいろいろな歌をうたった。先に述べた小鳥のさえずりと同様に、たくさんの音を上手に組み合わせるひとは、異性から人気があった。だから、人間の歌はどんどん複雑になっていった(「歌」の進化)。あるとき、求愛のときだけではなく、狩りにいくときにも歌をうたってみたひとがいた。するとそのひとのまわりにはたくさん友達が集まってきて、狩りは大成功だった。今度は食事のときに歌をうたってみたやつがいた。たくさん友達が集まってきて、いろいろな食べ物を持ってきてくれたので、楽しく食事ができた。そのうちに、いろいろな状況をいろいろな歌で示すようになってくる(言葉の起源)。
歌はお互いに学びあうから、偶然、ある状況とほかの状況で共通してうたわれる部分があったとしよう。すると、そういう環境で育った子どもたちにとって、その部分が二つの状況の共通部分を指し示すものとして理解されてくるだろう。たとえば、狩りの歌と食事の歌の共通部分をうたうだけで、みんなが集まってくるだろう。狩りも食事も、みんなでする行動だからだ。こういう過程が繰り返されてきて、歌の一部がより具体的なものを指し示すようになり、単語のような働きを持つようになる(相互分節化仮説)。
同時に、その単語が歌のどのあたりで出てくるのかという礼儀が決まってきて、文法のようなものが生まれてくる。以上が、スウェーデンの同僚科学者であるビヨーン・マーカーといっしょに考えた、「言語の歌起源説」と、その根幹をなす「相互分節化仮説」である。
求愛の歌が言葉を生んだ?
言葉の歌起源説を受けつけないとしたら、ほかにはどんな起源が考えられるだろうか。子どもの発達を見てみよう。まず不明瞭な発話から短い単語が出てくる。少しずつ単語が増え、表現できることが増えてくる。1歳半くらいになると、単語を組み合わせて、さらに表現の幅が広がってくる。こう考えると、まず単語が生まれ(単語の進化)、次に組み合わせの規則が生まれ(文法の進化)、そして言葉ができたという考えが浮かぶ。単語起源論である。もちろん、こう考えるほうが一般的だし、学会の多勢はこのような考えにもとづいた言語起源論を信奉している。
音の連なりを物や概念と対応させる過程は、動物にだってある。イヌは「おすわり」と言えばおすわりをする。だから、個々の単語が生まれてくる過程は、動物と人間で共通かもしれない。しかし、これを組み合わせる規則(文法)はどこから生まれてくるのだろうか。組み合わせの規則が生まれることを説明できなければ、言語起源論としてはあまり評価できないではないか。そもそも個人の発達を、人類の進化と混同してはいけない。子どもが発達する段階で生ずることが、なぜ人類が進化する段階で生じたと考えるのか?根拠はない。
この点、歌起源説は有利である。歌をうたっているうちに、単語も文法も自然に出てくるという説だからだ。歌をうたって求愛する動物はいろいろいる。人間になる前の人間もそんな動物だった。人間はいろんな事情で脳が大きくなり、いろいろな歌をうたえるようになった。そして、いろいろな歌といろいろな状況を結びつけて考えることができるようになった。