桜が満開になったある春の朝、公園におばあちゃんが一人で立っているのを見かけました。よく見てみると、胸にぬいぐるみ型のロボットを抱えています。そのおばあちゃんは、ロボットに「きれいだね」とやさしく語りかけていました。私はそれを見て、後ろめたいような、いたたまれないような、なんとも複雑な気持ちを抱きました。おばあちゃんの会話の相手がプログラムにすぎないロボットであるというのは、果たして正しい姿なのでしょうか。この痛々しさはなぜ生まれるのか、逆にどのような条件ならその痛々しさを感じないで済むのか。この問題を追求することが、人とロボットの共生社会のカギになるような気がしています。
前述のように、「ルンバ」が掃除しやすいように部屋をあらかじめ整理整頓するという作業は、プログラムで動いているにすぎないロボットと、そのロボットのためにせっせと行動をしている人という意味で「桜の木の下でロボットを抱くおばあちゃん」と同じ関係のようにも思えます。でも、ルンバとの共同生活には多くの人は痛々しさを感じないでしょう。
たとえばハサミと私たちの関係を考えてみましょう。ハサミはそこにあるだけでは何の価値もなく、私たちの手の中で使われて初めて「切る」という機能が現れます。他方、私たちもハサミの使い方に習熟するにつれて、上手に切り刻むことができるようになっていきます。すなわち、両者のかかわりによって、モノに価値が宿ると同時に、人にも新たな価値が生まれるという関係にあります。こうした関係性を「相互構成的な関係」と呼びますが、人とロボットのかかわりも、そういう方向を目指すのがよいのではないでしょうか。
ルンバと人との関係は、実はこの関係に近いようにも思えます。ハサミと人のような原始的な関係に戻ろうというのではありません。でも、ハサミと人との間には確かに存在する、互いに価値を高め合うような関係性を、人とロボットとの間に築くことはできないだろうか。それが人とロボットとが共生する社会のヒントになるのではないかと思うのです。
私たちの作る「弱いロボット」たちは、他者を志向しつつ、他者から支えてもらう存在。もちろん、逆にロボットに対して繰り出された人間の行為を支えてあげる、というところまではまだまだ到達していません。ただ、課題はクリアになってきました。すぐに役に立つロボットではないけれど、そうした議論を深めるきっかけになるロボットは作ることができているのかなと思います。