昨年(2017年)こそ受賞を逃しましたが、ここしばらく何人もの日本人科学者がノーベル賞を受賞しました。彼らの多くがインタビューの折に「このままでは日本の科学が危ない」と懸念をうったえ、多くのメディアも同様の見解を報じています。さらに、国際的科学誌『Nature』までもが科学技術立国・日本の未来を案じた「Nature Index 2017 JAPAN」という特集を組んでいます。「日本の科学の凋落問題」を宇宙物理学の権威・佐藤文隆氏が語ります。
日本は何を間違えたのか?
「日本の科学技術の凋落が始まっている」とメディアで取り沙汰されることが多くなっています。しかし、私に言わせれば「凋落」という表現は妥当ではありません。何をもって「科学の凋落」と言っているのか。背景には、偶然重なった次に述べる3点が混同されている事情があります。
第一に、日本のモノづくり産業が国際市場で敗北した点。第二に、大学の衰退。第三に、研究の現場の問題です。本来、この3点は別々の問題で解決策も異なりますが、これらを整理しないで捉えているので、あたかも日本の科学が凋落しているかのように感じられているのです。では、順を追って説明しましょう。
まず、第一の問題点、日本のモノづくり産業について。日本は科学技術に特化し、ハードウェア産業を得意としてきました。さすがモノづくり大国というだけあって、日本ならではの視点でハイレベルな挑戦を続け、さまざまな製品を作り出してきました。たとえば液晶のパネルなら、日本は「もっときめ細かく、もっと画素数を高く」と追求していく。人間の目ではもはや区別できないあたりまで挑戦する。研究や医療の機器といった特殊なものならまだしも、一般の家庭のテレビでそこまでのきめ細かさは必要とされないのに、日本はそういう方向性で突き進んできました。そして、この姿勢一本にしたがゆえに、日本は国際市場で負けてしまったのです。ハードに特化しすぎて、ソフトで負けたわけです。
モノをいくら進化させたところで人間はこれ以上進化しないのですから、むしろ人間とモノの関係性を総合的に捉えながら産業を生んでいく必要があります。グーグルやアップルなどに代表される情報産業が伸びたゆえんです。残念ながら、日本はそのバランス感覚に欠けていました。
とはいえ、日本のモノづくり産業の地位はまだまだ世界的にも高いと言えます。しかし、完成品ではなく部品のサプライヤーとしての存在感が強くなっているので、過去に比べれば当然儲けが薄くなっている。そういった焦りが「科学技術の凋落」という印象を生んでいるのですが、これは日本経済の問題です。
第二の問題点、大学の衰退について。大学は今や不況産業と言われていますが、これは事実でしょう。理由は単純明快、少子化だからです。人口が減っているのだから、これまで通りでは成り立たなくなるのは当然です。イギリスでもかつて少子化により学生数が減ったことがありました。その際、イギリスの大学は留学生を大幅に受け入れることで規模を維持することができました。しかし、日本ではそういった動きが起きていません。日本は英語圏ではないため、留学生が集まりにくいという側面はあるにしても、留学生を迎え入れる努力は今後必須です。論文数が減っている事実についても、研究に携わる人数が減れば当然です。「大学が衰退するから科学も衰退したのではないか」という印象を与えるようですが、大学問題はむしろ現在の日本が抱えている少子化問題の一つの表れと言えます。
第三の問題点、研究の現場の問題について。これには、研究のための資金の獲得・分配の側面と、人材不足の側面があります。
まず前者に関してですが、先端の研究には非常にお金がかかるので、経済力と科学の発展が関係しているという現実があります。最近のノーベル賞の日本人受賞者を見てみれば、70年代後半以後に余裕を持った資金を獲得していた研究が多い。お金に詰まってアイデアが出たという話もあるが、やはり余裕がアイデアを生み出す場合のほうが多いのです。たとえバブル経済でも好景気は好景気で、あの時代の余裕ある雰囲気が研究を下支えしていたことは間違いありません。福祉の負担で社会に余裕がない今、資金の分配方法については、知恵を出さないといけない状況だと言えます。
まるで「首の絞め合い」
1990年代後半に、日本は「科学技術創造立国」を目標に掲げて研究開発の推進に取り組み、巨額の研究費が大学に集まるようになりました。95年に「科学技術基本法」が制定されて、以後は毎年5カ年計画で研究費が増やされていきました。ただし、この研究費は黙っていても配られるものではありません。国立大学に分配される補助金である「運営交付金」は法人化した2004年度以降年々縮小されていて、代わりに各研究室・研究者が応募して獲得する「競争的資金」が伸びています。
この競争的資金を得るために、研究現場では絶えず申請書作りをやっています。メジャーな大学の教授は多くの時間を費やして、申請書の作成のみならず、他の研究者の申請書の審査をしなくてはなりません。分厚い申請書というのは書くほうも大変ですが、読むほうも大変。どれも先端の研究だから、その分野の専門家でないとわからないため、互いに審査し合うしかなく、結果的に互いの首を絞め合っているとも言えます。
全部を競争的資金にするのでなく、ベーシックな部分の資金は初めから分配したほうがいいと思います。そうすれば、審査が必要な部分は減り、審査に忙殺される時間の問題がまず軽減されます。とはいえ、国が用意した研究費のすべてを一律に配るのは合理性がないので、やはりよい研究に資金が投じられるように審査はしなければいけません。
そのためには「研究組織の格付け」を行い、多くの研究費を獲得できる組織をあらかじめ指定するのが解決策の一つとなります。文部科学省は、2018年の3月に大学を機能ごとに分ける枠組み案を示しました。私立大を含め、大学を「世界的研究・教育の拠点」「高度人材の養成」「実務的な職業教育」の3種類に分類し、大学ごとの特色を明確にするということのようですが、この分類で言えば、「世界的研究・教育の拠点」となる大学に特に研究費が集まるようにすればよいのです。それは広い視野での「世界的研究」であり、純粋科学に特化したものでもありません。実験設備の継続した効果的運用からいってもこういう重点化は必要になると思います。
戦後、日本の大学は横並びを理想に掲げました。大学数、大学院数は年々増加しましたが、各大学に特色を持たせるよりは、似たような大学を何百と作る方向に流れました。経済力向上で進学率も高まり、大学も増えた。進学率の上昇は民主主義の拡大という先進国の特徴ですが、従来のエリート養成の大学を基準にすれば、量の増加は質の低下を意味します。たとえば、進学率が10%の国と60%の国があるとすれば、10%の国では少数精鋭の秀才が集まってくるから自然と質の高い研究が生まれやすいのですが、60%の国では逆のことが起こります。みんなを平等に教育しようとすれば、レベルも平均化されてしまい、特化した能力に抜きんでたものが生まれにくくなるわけです。
みんなが同じものを平等に目指すという戦後の大学教育は、量的に拡大した今では限界が来たと考えざるを得ません。今後は大学の多様化を前提にした分類を行って、先端研究という特殊な業務を目的とする大学と、そうでない別の特徴を持つ大学とを分けて、研究費の分配作業も効率化して安定したものにすべきでしょう。そして、先端研究に意欲のある人間はそういう大学や組織の人事で勝負する流れになっていくでしょう。