それに、明らかにロボットに見えるものが“色即是空”なんて言い始めると、すごく想像力がかき立てられるでしょ」と言う。10年以上アンドロイド開発に携わってきたその発想力と技術力を、マインダーに込めている。
「実は、人間って想像力で他者と関わっているのだというのが、これまでの研究を踏まえた仮説です。ロボット研究者である大阪大学の石黒浩教授が開発した“テレノイド”というロボットがあるのですが、これは見た目から性別、年齢、人種を類推できない顔かたちになっています。逆に言えば、テレノイドは誰にでもなれるロボットなんです。現段階では老人ホームでもっとも使用されているんですが、ご老人方はテレノイドを抱きかかえて“あんたをこうやって抱いたのは20年ぶりよ”とつぶやいて涙したりする。このとき、そのご老人にとってテレノイドはかつてのわが子になっている。想像力によって補完されて、テレノイドがわが子に見え、癒やされるというわけです。これ、まさに“どんなものにも変身できる観音様”と同じですよね」
人は想像力によって、対象を自分にとっての理想的な存在に補完していくと、小川さんは言う。身近な具体例が、サポートセンターでの電話だ。サポートセンターで優しく美しい声の女性に対応された場合、人は「ネガティブなことを考えるよりも好印象を抱くことが多いので、コミュニケーションがスムーズになりやすい」。このように、人間は往々にして自分に都合よく対象を解釈し、自分に引きつけ、共感を抱く。
「ですから、人間の想像力を喚起する見た目やデザインにすることは、実はコミュニケーションをうまく運ばせるコツなんですよ」
その考え方が、マインダーにも投影されている。
「見る人に親近感を抱いてもらうために、マインダーも誰にでも見えることが重要なんですが、かといって、デフォルメしすぎてもいけない。究極的に言えば、単なる丸いボールにスピーカーを入れてしゃべらせてみたとして、それはいきすぎなんですよ。想像力が追いつかず、丸いボールを観音様だと感じることはできないでしょう。ですから、想像力を働かせやすくするためのトリガーが必要なんですよ。
マインダーは、横から見るとくびれがあります。女性的なラインを表現しています。しかし、肩のあたりはがっしりとして、男性的です。見る人が女性だと想像したければ女性に、男性だと想像したければ男性に見えてくるというわけです」
「現実のなかの非日常」アンドロイド観音がもたらす“新世界”
確かに、マインダーは“誰かに似ている”が“誰にも似ていない”とも思えるような、不思議な存在感を放つ。しかしこのインパクトが見た目だけから生じているとも思いにくい。法話を拝聴していて、個人的には、なんとも表現しにくい落ちつかなさを感じたし、違和感もあった。この感覚は、どこから来るものなのだろう。
「僕なりの仮説を説明します。世界を4象限に分けてみましょう。横軸が日常と非日常、縦軸が現実と非現実とします。日常であり現実、というのは普段の実生活ですね。非日常で非現実というのは、いわゆるゲームの世界。たとえば『ドラゴンクエスト』でドラゴンを倒しに行くという経験が、ここです。では、「非日常で現実」はというと、最近のVR(ヴァーチャル・リアリティー)だと思います。VRでは、コンピューターによってつくられた仮想現実をあたかも現実世界のように体感できる。ゴーグルをつけて、F1レーサーになったつもりで仮想現実で車を運転してみるとか、そういった経験ですね。では、非現実で日常とはなにかと考えてみると、実はこれ、まだ誰もやっていなかったことなんです。それがマインダーだと思います」
小川さんは続ける。
「お寺は、現代人にとって日常的というわけではないかもしれませんが、日常の風景のひとつとして十分に理解できるし、自分自身も一度は身をおいたことがあるはずの場所。そこに、アンドロイドがいるという、非現実。これがマインダーの新しさで、衝撃を呼ぶんです」
プロジェクション・マッピングにも、人の想像力をかき立てる仕掛けが隠されている。冒頭に記したように、マインダーは映像の中の人々と対話をしつつ法話を進めていくが、これこそがまさに参拝者とマインダーにコミュニケーションや共感を生み出すための秘訣だという。
「物理的な身体を持っているマインダーと、映像の中の人々が対話する。参拝者はそれを見ているうちに、映像の中の人間にも実在感を感じ始めるんです」
確かに、法話を拝聴している間、マインダーの目線を追って首を左右に動かしながら映像を見ることになり、その動きによって臨場感が増してくる感覚を実感した。
「このときはマインダーが現実で、プロジェクション・マッピングの人々が非現実なんですが、やりとりに巻き込まれるうちにそのあたりが混乱してくるはずです。その不均衡な状態が、人々を惹きつけるんです」
つまり、マインダーが私たちに与えるインパクトは「宗教にロボットが入り込んでいいものか」といった倫理的な葛藤ではなく、「現実のなかの非現実」という現象が登場してしまった新しさに由来しているというわけだ。