今日では、日本人のトッププレーヤーは大リーガーに引けを取らぬ力を持っているとされている。しかし、かつては、日本の選手は大リーグでは通用しないともいわれていた。
みなさんは海を渡った日本人大リーガーたちが、野球の本場、アメリカで、どんな活躍をしてきたかご存じだろうか。
ここでは松坂たちの先輩格である日本人大リーガー5人をピックアップ。あらためてその功績について振り返ってみたい。
大リーグ挑戦の扉を開いたパイオニア
1994年、日本球界のエースであった近鉄バファローズの野茂英雄投手が、突如、任意引退選手となり、95年、名門ロサンゼルス・ドジャースに入団を果たした。契約年俸はわずか980万円だった。同年5月2日、サンフランシスコでのサンフランシスコ・ジャイアンツ戦でデビューし、大リーグ史上30年ぶり2人目の日本人投手となる。
野茂の独特の投球フォームはトルネード(竜巻)投法と呼ばれ、伝家の宝刀フォークボールで、バッターから次々に三振を奪うなど、全米中に大旋風を巻き起こした。日本人として初めてオールスター戦に出場(先発で登板)。13勝6敗、ナ・リーグ最多の236奪三振を挙げるなど活躍し、新人王に輝いた。
その後も活躍を続け、大リーグ11年間で通算123勝、日米通算200勝に到達。1996年にドジャースで、さらに2001年にボストン・レッドソックスで「ノーヒットノーラン」を達成。ア、ナ両リーグで偉業を達成した4人目の大リーガーとなった
こうして、日本人大リーガーの先駆者として、野茂は大リーグ、すなわち世界に実力をアピールしたことで、日米間の距離を一気に縮め、日本人選手に大きな夢と希望を与えることになった。
大リーグの歴史を塗り替える男
日本プロ野球史上、初の年間200安打を達成し、パ・リーグで7年連続首位打者に輝いたオリックス・ブルーウェーブ(現オリックス・バファローズ)のイチロー外野手は、2001年にポスティング・システム(入札制度)でシアトル・マリナーズへ移籍し、大リーグ史上初の日本人野手としてデビューした。当初、大リーグで日本人野手は通用しないと言われたが、チームの主力として、大リーグタイ記録の116勝という圧倒的な強さでの地区優勝に貢献。ア・リーグの首位打者と盗塁王を獲得し、大リーグ史上2人目の新人王&MVP(最優秀選手賞)に輝いた。
その後も、日本の天才バッターは、次々に先人たちの記録を塗り替えていく。2004年には不滅の大記録と言われたジョージ・シスラー(元セントルイス・ブラウンズ)の257安打を追い抜き、262安打という金字塔を打ち立てた。
01年以降、6年連続で打率3割、200安打、100得点、30盗塁以上をマーク。07年の今シーズンはウェイド・ボッグス(元レッドソックス)が持つ大リーグ近代記録の7年連続200安打に並ぼうとしている。
巨人の4番がヤンキースの柱に
読売ジャイアンツで不動の4番打者としての重責を担い、日本球界を代表するホームランバッターとして君臨した松井秀喜外野手が、2002年シーズン終了後にFA権を行使し、大リーグの名門ニューヨーク・ヤンキースと契約した。大リーグで初の日本人スラッガーの挑戦に注目が集まり、03年にヤンキースの強力打線の中で5番を任され、ホーム開幕戦でいきなり満塁本塁打という活躍ぶり。ワールドシリーズでは日本人初の本塁打を記録した。
04年には、日本で行われた大リーグの開幕戦で凱旋アーチを描き、自己最多の31本と、本塁打を量産。05年には初の打率3割、そして3年連続で100打点以上と、勝負強さを発揮し、ヤンキースという常勝軍団に欠かせぬ存在となった。
06年5月の試合で左手首を骨折してしまい、日米通算1768試合で連続出場が途切れるというアクシデントにも見舞われたが、どんな苦難をも乗り越える不屈の精神力は、日本人でありながら「ヤンキースの誇り」を感じさせた。
日本人がワールドシリーズ優勝
青山学院大学時代からオリンピックの日本代表として活躍し、福岡ダイエーホークス(現・ソフトバンク)の2度の日本一に貢献した井口資仁二塁手は、2004年オフ、自由契約選手となり、大リーグ挑戦を表明。翌年、シカゴ・ホワイトソックスと契約した。1917年以来ワールドシリーズ優勝から遠ざかっていたホワイトソックスで、不動の2番打者としてつなぎ役に徹し、オジー・ギーエン監督が「チームのMVPだ」と評価するほどの活躍で地区優勝に貢献した。
さらにプレーオフでもレッドソックス戦で逆転3点本塁打を放つなど、チームに勝利をもたらし、88年ぶりの世界一に貢献。日本人選手として初めてワールドシリーズでプレーし、なおかつ栄冠を勝ち取った。
2006年はワールドシリーズ2連覇こそ逃したが、打率、ホームラン、得点で成績アップ。さらに二塁の守備でも球史に残るファインプレーを演じるなど、ア・リーグを代表する二塁手になりつつある。
「言葉の壁」破ったキャッチャー
2005年、日本球界最高のキャッチャーに登り詰め、04年アテネ・オリンピックでは日本代表の4番も務めた、福岡ソフトバンクホークスの城島健司捕手が、大リーグ挑戦を決意する。オフにFA権を行使し、シアトル・マリナーズと契約を結んだ。すでに大リーグでは日本人投手、外野手、内野手が次々に成功を収めていたが、唯一、捕手のみが残されたポジションであった。キャッチャーに必須である、投手陣とのコミュニケーションなど、言葉の壁が問題視されていた。
しかし、06年に大リーグ史上初の日本人捕手となった城島は、味方投手陣や相手バッターの研究に加え、体を張ったプレーでチームの信頼を勝ち取り、大リーグ最多の 144試合に捕手として出場した。
また、ア・リーグの新人捕手の安打記録を更新する147安打を放ち、日本人大リーガー1年目で最多の18本塁打をマークするなど、打撃でも活躍。ホークス時代同様に「強打のキャッチャー」としての存在感を見せ付けた。
いかがだろうか。以上で解説した先輩たちに続けとばかりに、今年アメリカに渡った選手たちも活躍を始めている。タンパベイ・デビルレイズの岩村明憲内野手は、日本選手の新人開幕連続試合安打記録を塗り替え、レッドソックスの岡島秀樹投手は、ア・リーグの4月の月間最優秀新人賞に選ばれるなど、好調をキープ。今後も日本人大リーガーたちの活躍から目が離せない。