洋館をめぐる意識の変化
最近、40年以上にわたって、日本の洋館を撮影してきた建築写真家の増田彰久氏と対談する機会を得た。増田が洋館に注目したきっかけは、明治時代に建設され、東京・丸の内に「一丁倫敦(ろんどん)」と呼ばれる赤煉瓦のエリアの一画を形成していた「三菱一号館」がとり壊されると聞いて、1960年代に撮影したことだという。当時、高度経済成長期の日本では、洋風の近代建築に興味をもつ人はほとんどいなかったらしい。ゆえに、増田は、現在、洋館が観光資源となり、週末に多くの見物者がいることに、大きな時代の変化を感じると述べていた。わかりやすい事例を挙げよう。東京駅は戦火を逃れたものの、60年代に解体が検討されていた。今から考えると信じられないだろう。ちなみに、今や世界遺産に指定されている法隆寺も、明治の初めにはその価値がまったく認識されず、ぼろぼろの状態だった。文明開化で忙しい時期に、古くさい建築に気をとめる余裕がなかったのだろう。ちなみに、2002年、東京駅を残すために、その上空の容積率をまわりの敷地に移転し、販売できる特例を認めている。その結果、高層ビルが増えているのだが、東京駅は11年度末には建築当初のドームの形状が復原される予定だ。また三菱地所は、かつて壊した「三菱一号館」を同じ場所で復元するプロジェクトに着手している。増田が撮影した失われた近代建築が復活するのだ。もっとも、これは過去と同一の素材ではないから、精密なレプリカである。
ここで確認したいのは、以下のことである。建築の価値がしっかりと理解されるには、時間がかかること。そして時代によって評価も変化すること。また一度壊されたら、モノとしては永遠に消えてしまうこと。
歴史的な重層性のある都市景観
日本は世界でもトップレベルの長寿国だが、住宅の耐用年数は先進国の中では最低レベルの30年程度しかない。人間の方が建築よりも長生きなのである。日本ではたとえ地震がなくても、いつも常に静かな「見えない震災」が起きているかのようだ。フランク・ロイド・ライトが設計した名建築の帝国ホテルも、第二次世界大戦後の接収を意識して、アメリカ軍は爆撃しなかったが、1960年代の激しいスクラップ・アンド・ビルドの波を受けて解体されている。これを契機に明治村が創設され、帝国ホテルの一部が移築された。70年代には、岡山県倉敷市の「倉敷アイビースクエア」(73年)
美しい景観を語る人は、よくヨーロッパの古い街並みが良いという。ビルの屋上に三角屋根を強制的につけるべきだと論じる重鎮すらいる。だが、洋風や和風のデザインを無理矢理に増やしても、ただのテーマパークになってしまう。しばしば景観論者にとって理想とされるパリの街並みは、重層的な時間を蓄積した歴史性を抱え込んでいるからこそ、魅力的なのではないか。30年もしないうちに路線変更をして、前の時代の建築を否定し、いちいち全部つくり変えるような発想では、いつまでたってもキレイなビルがあるだけで、複雑かつ多様な都市の魅力は生まれない。
現代建築も危ない時代
少なくとも、すぐれた建築を未来に残しておけば、将来に向けて都市の年輪を増やすことができるだろう。ところが、最近は近代建築よりもさらに新しい60年代や80年代の名建築も存続の危機にある。菊竹清訓の設計した、宮崎県の「都城市民会館」(66年)
東京・新橋駅に近い黒川紀章の「中銀カプセルタワービル」(72年)
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フランク・ロイド・ライト
Frank Lloyd Wright
アメリカを代表する建築家(1867~1959)。20世紀の初頭、プレーリースタイルと呼ばれる、水平線を強調した住宅で頭角を現した。その際、閉じた箱としての部屋を解体し、空間に流動性を与えたことも特筆される。モダニズムが機械のような建築をめざしたのに対し、ライトは大地に根ざした有機的な建築を提唱した。代表作の落水荘(35年)は、森のなかで滝の上に張りだした住宅であり、環境に溶け込む。日本にもしばらく滞在し、明治村に移築された旧帝国ホテル(23年)などを手がけた。ここでは幾何学的装飾を多用した濃密な空間を実現している。(イミダス2008「建築」より)(五十嵐太郎)
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リノベーション
renovation
歴史的建造物の外装や設備を修理して再生すること。
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黒川紀章
独自のデザイン思想を唱え、世界的に活躍した建築家(1934~2007)。1960年代にメタボリズム運動のメンバーとして登場し、国立民族学博物館(77年)やクアラルンプール国際空港(98年)などを設計した。2007年には、大胆なガラスの曲面と機能的な展示システムをあわせもつ国立新美術館がオープンした後、都知事選と参議院の選挙に立候補したことでメディアをにぎわせた。この行動は、一見、荒唐無稽に思えるが、彼がずっと追求していた都市デザインを実現する究極の手法ともいえる。実際、石原慎太郎の東京中心主義に対抗するビジョンを掲げていた。黒川は共生新党も結成したが、「共生」とは西洋的な二元論と違う価値観をあらわす彼の言葉として以前から論じていたものである。(イミダス2008「建築」より)(五十嵐太郎)
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メタボリズム
metabolism
1960年代に世界に向けて発信された日本の建築運動。編集者の川添登を中心として、菊竹清訓、槇文彦、黒川紀章、大高正人らが参加した。60年の東京における世界デザイン会議の開催にあわせて、来るべき社会のデザインを提唱するグループを結成。メタボリズムという名称は、新陳代謝を意味する生物学の用語からとっているように、部分の交換可能なデザインをめざした。つまり、完成して終わりではなく、ダイナミックな変化も抱え込んだ建築である。子供室を吊り下げた菊竹のスカイハウスや、黒川の中銀カプセルタワービルなどが、その思想をよく表している。(イミダス2008「建築」より)(五十嵐太郎)
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東京ミッドタウン
2007年3月にオープンした旧防衛庁跡地の再開発。高層棟のオフィス、ホテル、居住棟、店舗、美術館を含む、巨大な複合施設である。アメリカのSOMがマスターアーキテクトを担当し、日建設計がそれをサポートした。個別の店舗は、内藤廣など、さまざまな建築家が手がけ、密度の高いデザインを実現している。東京ミッドタウンは、六本木ヒルズに比べ、洗練されたシックな空間をめざした。しかし、全体としてのシンボル性には欠ける。敷地内の美術館は、デザインを隠している。隈研吾設計のサントリー美術館は、繊細なルーバーを使い、その存在を強烈に主張しない。また安藤忠雄の21_21 DESIGN SIGHTは、ほとんどの姿を地下に埋めており、鉄板の大屋根が手前で折れ曲がって地面につく。(イミダス2008「建築」より)(五十嵐太郎)
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