禅画「十牛図」とは何か? 「牛」を求めて発見する
まず、全体の流れを説明しておこう。第一図「尋牛」(じんぎゅう)は、行方の分からない牛を求めて、牧童がうろうろと捜し回る光景である。途方に暮れているが、見つかるまで、諦めるわけにはいかない。誰にとっても、人生目標というものが必要なのは、それに向かって真剣に邁進(まいしん)することによってのみ、人間としての成長が可能となるからだ。
第二図「見跡」(けんじゃく)は五里霧中、求めども見つからない悲壮感に打ちひしがれていたときに、ふいに牛の足跡を発見する牧童の姿である。真剣に努力する者は、必ず壁にぶち当たるものだが、そこで諦めてしまわなければ、きっと努力は報われる。それまで牧童が、どれほどの時間を費やしたのかは分からないが、それは無駄ではなかったわけだ。
第三図「見牛」(けんぎゅう)は、足跡をたどってきた牧童がついに牛の尻尾を発見した瞬間を描いている。自分の追い求めていたものが、決して幻想ではなく、確かな実在として目の前に現れて来たのである。仕事であれ、恋愛であれ、本気で物事に取り組んだことのない人間には、この喜びは到底分からない。
苦労の末「牛」を自分のものにすることができた
第四図「得牛」(とくぎゅう)では、長い辛苦の末に発見した牛を逃すまいとする牧童と、拘束されたくない牛との間に必死の格闘が始まる。少しでも油断すれば、元の木阿弥である。こういう緊張感を味わったことのない者は、どういう分野であってもプロフェッショナルであり得ない。第五図「牧牛」(ぼくぎゅう)では、もはや牛は逃げようとせず、牧童の歩みに柔順となる。ひとたびは悲観主義に陥っていた牧童の心も安堵感に満たされ、家に向かう足取りも軽い。自分で描いた夢をついに実現した人間の喜びは、本人にしか分からない。負け犬根性が蔓(まん)延する現代社会だからこそ、このような喜びを知る人間が尊いのだ。
第六図「騎牛帰家」(きぎゅうきか)では、手綱を放しても、帰り道を知る牛が歩みを止めようとはしない。牧童はその背で笛を吹き、春の風光を楽しんでいる。牧童と牛の間に完全な信頼関係が成立し、主客一体となった境地である。起業家なら、ここまで事業を軌道に乗せることができれば、本懐を遂げたことになる。
「牛」を得て、自分と一体化する
第七図「亡牛存人」(ぼうぎゅうそんじん)は、こつぜんとして牛が消え、牧童独りが我が家でくつろいでいる。人生目標となっていた夢が内在化され、もはや外に求めるものは何もない。ここに至って、ようやく人生の主人公が自己であることが自覚され、「生かされて、今ここにいる」妙味は深まる一方である。宗教を論ずる人の信仰は浅く、名利を求める人の心は苦しい。第八図「人牛倶忘」(にんぎゅうぐぼう)では、人と牛が共にかき消え、円相(禅宗で、悟りの形象として描くまるい形)があるのみだ。これぞ仏教の「空」に他ならないのだが、それは虚無のことではない。あらゆる存在の絶対肯定が可能になるのは、自我意識が完全に消えた透明な世界のみであり、もはや神という概念すら邪魔になる。
第九図「返本還源」(へんぽんかんげん)では、花ほころぶ梅の枝が描かれたりするが、それは自然そのものである。ただ、それは自我の全否定という洗礼を受けた後に見えてくる、光輝く自然であり、物理的自然ではない。われわれの多くは、山を見て山を見ず、月を見て月を見ていない。
第十図「入塵垂手」(にってんすいしゅ)は、痴聖人(ちせいじん)と呼ばれる禅の理想的人間像を示している。かつての牧童が布袋のような豊満な体つきになって、街を徘徊している。彼は俗に入って俗に染まらず、当たり前の世界に生きて、当たり前ならざるものを楽しむことを知っている。それが遊戯三昧(ゆげさんまい)の境地であり、彼にとっては、もはや仕事と遊びの境界線すら存在しないのである。
「牛」は何を言い表しているのだろうか
さて、この「十牛図」に登場する牛を何の比喩(ひゆ)と見るかによって、この禅画の意味するところが大きく異なってくるが、その解釈は読者の想像力に任せたほうがよいだろう。ただ一点だけ言っておくのなら、牛は己を精神の高みへと導く方便であり、目的ではあり得ないということだ。牛が対象化されているうちは、自己との距離が残っているのであり、いまだ努力が中途半端なところでとどまっていることになる。スポーツ選手なら記録を忘れ、心技一体となったとき、そのスポーツの神髄を極めたことになる。牛が消えた第七図あたりから、ようやく人生が見えてくるとでも言おうか。でなければ、宗教を追う者は宗教で迷い、財を追う者は財で迷うことになる。かといって、最初から牛を追うことを放棄するのなら、それは掛け替えのない人生からの逃避である。
この不況の時代にあって、ニートやフリーターであるのは当人の願うところではないだろうが、どういう状況に置かれていたとしても、どこまでも真摯(し)に牛を求め、それを真に我が物とする営みからは、何人たりとも免れ得ないのである。
次回は、捜し求めるものと一体化し、自分が得た「真理」をめぐる問題について考えてみよう。