サーカス興行の移り変わり
2010年10月、日本三大サーカスの一つといわれ、第二次世界大戦中の1942年に旗上げしたキグレサーカスが倒産。国内のサーカスは木下サーカスとポップサーカスの2団体になってしまった。今の日本は、海外のサーカス団にとって、とてもいい市場であるのに対し、在来のサーカス団にとっては、とても厳しい環境になってしまっている。年配の人たちの記憶にある日本のサーカス興行は、ある日突然やってきて、大テントを建て、にぎやかなショーが始まる。大勢の人が押し寄せて、非日常的な日々が続いたかと思えば、ある日突然に大テントは消えてなくなり、その跡には何もない空間が顔をのぞかせている……といったものだろう。一体どこへ行ってしまったのか、そんな思いから「放浪するサーカス」といったイメージも自然と生まれた。
しかし時代が変わる中で、サーカス公演を成功させるためには、先々の興行場所を決めるコース取り、集客のための宣伝、団体客の勧誘など、実際のショー作りのほかに、準備しなければならないことが山のように増えた。それらをきちんとできなければ、団を維持する興行収益を上げるのは至難。たちまち大きな負債を抱えこんで、倒産してしまう。
今はそんな時代になったのである。
日本のサーカス団の現状
今日、海外のサーカス団が来日公演する場合、大企業であるテレビ局や新聞社などが主催者になることが多い。当然のことながら、綿密かつ十分な収益戦略を立てたうえで公演するのだから、今日はここ、明日はいずこといった、昔日の日本のサーカスのような「放浪」のイメージはまったくといってない。戦後、日本では30以上のサーカス団が活躍していたにもかかわらず、次々と消えていってしまった。その背景には、経営を近代化できず、「一つの公演場所がうまくいかなくても、次の場所で稼げばなんとかなる」といった、興行は水物という、古い考えが経営者の脳裏にあったからではないか。さらに、テレビを始めとする娯楽の多様化、児童福祉法や労働基準法の整備で、後継者育成が困難になったなど、様々な要因も重なっただろう。
現在も興行している2団体のうち、木下サーカスではまだ日本人のアーティストが活躍しており、伝統芸としていくつかの演目も維持し、舞台に乗せている。しかし、往年の日本のサーカス技のレベルには至っていない。
ポップサーカスは、ほとんどの芸を海外のアーティストに頼っている。
動物芸も、見られるのは木下サーカスだけで、しかも海外で訓練された動物である。
こうした現状を見ると、いささか極端な言い方ではあるが、海外のアーティストや動物などを招請して興行するビジネスとしての日本のサーカスは存在している。しかし、遠く散楽にさかのぼることのできる、軽業、曲芸を継承した文化・芸能としてのサーカスは、ほぼ消滅したといえるかもしれない。
日本のサーカス、復活なるか
日本のサーカスは、再び日の目を見るのか。この予測は極めて難しい。今や新しいエンターテインメントショーとして、世界中で一世を風靡(ふうび)しているシルク・ドゥ・ソレイユは、1980年代に大道芸のグループから誕生した。彼らが作りだすショーは、サーカス技(アクト)を身体芸術(フジィカルアート)の一つとして捉え、ダンス、パントマイムなど、その他のさまざまな身体表現や演劇的要素も巧みに取り入れた、総合芸術的な作品となっている。
日本でも、新たな身体芸術をめざし、一つの身体表現としてサーカス技を学んでいる人々が、ここ10年ぐらいの間に急増。公演も行われるようになった。しかし、そうしたショーを、大衆の娯楽という昔日のサーカスのイメージで捉えるのは難しい。よって、彼らが衰退している日本サーカス界の新しい血になるかどうかも疑わしい。
実は日本でサーカスの復活には、もう一つ大きな障壁がある。それは、誰でも自由にテントを建てて公演を行ってよい、ということを認めない、サーカス業界の因習の存在である。この前近代的な仕組みが取り壊されないことには、日本に新しいサーカスムーブメントは起こらないかもしれない。
日本のサーカス復活という観点はさておき、今、日本では身体芸術としてダンスやサーカス技、大道芸などを学び、身につけた人々が、新たな文化・芸術の表現として路上、劇場、テント、祭り会場、学校、企業などで様々な活動を行っている。そうした表現活動がより活性化すれば、それがある種の身体芸術のムーブメントとなる可能性は、否定できない。
そうしたムーブメントが、過去の因習、悪しき習慣を打破したとき、人々はそれをどう見るだろうか。「日本にサーカスがよみがえった」と見る人も、いるかもしれない。
散楽
中国西域で発祥したといわれる、軽業、曲芸、奇術、幻術、物まねなどの大衆娯楽芸。雑芸ともいう。日本には奈良時代に伝来し、平安時代にかけて流行した。一部は田楽、猿楽として伝承され、能狂言へと発展したものもある。