男は太り、女はやせる
いよいよ夏直前、「ダイエット」の声がやかましくなってきた。いかにしてやせるかに文字通り心身をすり減らすのは、やはり若い女性である。たとえば、体格を測る目安となる指標に、「BMI(ボディマス指数)」がある。これは、身長から見た体重の割合を数値化したもので、日本ではBMI25以上を「肥満」、18.5未満を「やせ」としている。厚生労働省「2009年 国民健康・栄養調査」によれば、BMIから見た「肥満」は男性3割、女性が2割となっている。一方、「やせ」の割合は、男性約4%、女性1割である。BMIは性・年齢別の差が大きく、やはり「女性」「若年層」ほど痩身傾向が著しい。体格の性差は、明らかに男女に非対称な「容姿へのまなざし」を反映している。第二次世界大戦後、日本人の体格の推移を見ると、男性は太り、女性は若年層ほどやせつづけている。おおまかに見て20代女性は、戦後食糧事情の改善にもかかわらず一貫してやせてきた。30代は1970年代以降、40代も90年代以降痩身傾向にある。さらに40代も2000年代半ばから急激にやせてきているのも興味深い。女性の恋愛・結婚市場における「現役志向」、つまり年齢を重ねても若く美しくありたいという傾向の反映かもしれない。一方、年々増加してゆく男性の「肥満」は、たとえどれほど「草食化」が指摘されても、「男子の本懐は容姿にあらず」という意識の現れか。
なぜ女はそんなにやせたいのか?
もちろん、いわゆる「メタボリック・シンドローム」への警鐘など、「適正体重」の維持は健康上望ましいことではある。だが、とりわけ若年女性を中心とした極端な痩身願望は、健康にとって有害ですらある。決して「肥満」は多くない日本の20代女性であるが、6割がやせる努力をしているという。なぜ女性はそんなに「やせたい」のか? よく言われるように「異性に好かれる」ためだろうか。そんなに単純な話ではないようだ。男と女の暗くて深い溝
たとえば、2010年12月にアサヒフードアンドヘルスケアが行った「女性の理想の体型」「ダイエット」に関する意識調査によれば、男性70%が「痩せすぎている女性には魅力を感じない」と回答している。一方、女性で「痩せすぎている女性に男性は魅力を感じない」と答えたのは55%である。体型に関する男女の意識格差には、暗くて深い溝がある。同調査では、女性の87%にダイエット経験があり、その目的は1位「体型を気にせず洋服を選べるようになりたい」(45%)、2位「好きな服が似合う体型になりたい」(40%)と、「ファッション」が圧倒的な理由のようである。これに対し、「異性にモテたいから」は9位(12%)となっている。「男より自分磨き」が、女性の本音なのだ。「美しさ」の刷り込み
女性にとっては、異性の好みより自分の頭の中の理想像こそが重要なのである。理想を形作るのは、日々メディアに登場するモデルたちの体型である。テレビや雑誌に日々映し出される「若く、美しく、標準より細い身体的条件」を有する者は、現実的にはむしろ少数派であろう。だが私たちは、日常的に見慣れたものを「基準(モデル)」とみなしてしまう。ファッション市場は一見多様化したようでいて、その実、女性たちがあこがれる「理想的な身体像」は、極めて画一的である。さらに近年では、単にやせたモデルを起用するだけではなく、より細く「加工済み」の身体像があふれている。理想体型の非現実性
2009年には、ラルフローレンの広告用のあまりにひどい「修整写真」が話題となった。写真のモデルであるフィリッパ・ハミルトンのウエストがあまりに細く、骨盤は何と頭よりも小さい。ハミルトンの「修整なし」写真と比較しても加工は明らかで、むしろ素の彼女のほうが、よほど健康的で美しい容貌である。だが、ラルフローレンはそう考えなかった。その後「太りすぎ」のため、ハミルトンは解雇されたという。「理想体型」のあまりの非現実性に、あ然とする事件であった。理想体型を追った果てに
さらにこの「理想」には、深刻な側面も指摘される。若年女性を中心として、先進国にまん延する摂食障害の問題は今なお深刻である。2006年には、ブラジル人モデルのアナ・カロリナ・レストンや、ウルグアイ人モデルのルイゼル・ラモスらが拒食症で亡くなるという痛ましい事態が起きた。これをきっかけに「やせすぎモデル」に対する批判がわき上がり、翌07年にはフランス、イタリア、アメリカ、イギリスの4カ国協議が行われた。また、スペイン、イタリアでは、一定の体格基準に満たないモデルのランウェイ出場を禁止することを決定、アメリカ、フランス、イギリスは、認知度向上運動や教育などに取り組むとの発表がなされた。「祈り」にも似た思い
だが残念ながら、これらの「努力」にもかかわらず、ファッション界の主流はやはり極度の痩身である。私たちの頭に刷り込まれた「理想像」の刷新は難しい。「美」や「望ましさ」の感覚は、私たちの理想や生き方の指針と不可分に結びついているからである。だが、それが現実にはあり得ないほどの虚像であれば、どうすればいいのだろうか。メディアに流通する「理想像」は、もはや生身のモデルですら許容されないほどの「規範(モデル)」を前提としているのである。ダイエットとは、生身の身体という「現実」から解き放たれたい女性たちの、「祈り」なのかもしれない。信仰になったダイエット
皮肉なことに、「ダイエット」とは古代ギリシャ語で「生き方」を意味する「diaita」が語源である。今日、実に多くの女性が、健康やパートナーの意見すらも顧みず、ひたすら理想の体型を目指す生き方を選択している。それはもはや、理想体型の「信仰」の域に達していると言えよう。なるほど、ダイエット法の提唱者が「教祖」化するわけである。だが、人は何のために、ダイエットも含めた「理想の生き方」を目指すのか。もっと自分自身の健康にとって、最適な生き方を目指してほしいと心より願う。