震災は天罰か?
東日本大震災が起きてまもなく、これを「天罰」だと言った政治家がいた。なるほど地震、津波などの天災や自然災害は、歴史をさかのぼれば、かつて天罰(神罰・仏罰)とみなされたことがあった。この国の神話・伝説において、「天罰」を下した神もいないわけではないが、むしろ天災はもっぱら怨霊や無縁仏、成仏できない霊によるものとされた。また、儒教思想などの影響により、為政者はこれを「自らの不徳によるもの」と表明することもあった。たとえば奈良時代の聖武天皇は、地震、旱魃(かんばつ)、疫病の流行など、自分が即位してからの相次ぐ災いに対し、神々を祀(まつ)り祈祷をしたが、いまだ効果が現れず、人民が苦しんでいるのは、朕(ちん;天皇の一人称)の不徳による、という自責の詔(みことのり;天皇の命令、宣言)を出した。そして、741年、仏教の力にすがってこれを治め防ごうとして、全国に国分寺・国分尼寺の建立を命じ、次いで2年後、大仏造立に着手したのである。天災を人民の不徳による天罰とするのは、当時であれ現代であれ、為政者としての資質にまったく欠けていると言わざるを得まい。
死者への悼みと祈り
今回のようなおびただしい被災死者に対して、生者がなしえるのは、死者に思いをはせ弔うことだろう。かつて行われていた弔いの作法を振り返ってみるなら、死者を思いやり、死者と生者がともに悲哀を分かち合おうとした、この国の人々のつつましやかな心根を知ることができよう。今から800年ほど前、源平合戦で国中が乱れた養和(1181年)のころ、戦乱の京都をはじめとして、諸国では旱魃や台風・洪水などにより大飢饉(ききん)となり、疫病がそれに追い打ちをかけて、さらに大地震、山崩れ、津波といった災禍に見舞われていた。鴨長明の「方丈記」によれば、都では2年続きの飢饉により、数えきれない餓死者の遺体が街路や河原にあふれていたが、片づけられることもなく腐れ果てていった。これを見かねた仁和寺の隆暁法印(りゅうぎょうほういん)という僧が、仲間の僧侶とともに遺体の額に大日如来を表す梵語の「阿(あ)」の字を記して回ったという。その数4万2300余り。この僧は、おびただしい被災死者たちを悼みながら、一人ひとりをねんごろに埋葬することはできないが、せめてこの字によって仏との縁を結び、仏に導かれて成仏することを願ったのである。これは今回のおびただしい看取(みと)られない「死」にも、何らかの参考になりはしないだろうか。
また、源平合戦より少し前の12世紀初め、奥州藤原氏の初代清衡(きよひら)は、中尊寺建立に際し、鐘楼を建てて大きな鐘を掛けた。1126年に清衡が記したとされる「中尊寺建立供養願文」によれば、この鐘の鳴り響く限り、戦で倒れた敵味方の区別なく、果ては人が命を養うために殺生した鳥獣魚介に至るまで、仏の慈悲と救いにより浄土へ導かれることが祈念されている。このような「あらゆる生き物の霊魂はすべて平等だ」とする霊魂観は、日本人の特徴であり、今回の震災でも、飼われていた牛馬や犬猫ばかりでなく、水族館の魚類などの死さえも悼む人々に違和感がないのは、私たちがこうした心性に支えられているからである。
弔いの風習
一般に、大規模災害の被災死者は無機質な数字で表されるが、そこから死者や生者の悔しさ、無念さはにじみ出てこない。むしろ死者を標準化してしまい、生者を鈍感にする。死者は生前おのおの個別の名前を持ち、それぞれの生を送っていたがゆえに、その名を呼ばれ、悼まれ、記憶されることを望んでいよう。それが弔いの基本となる。こうした思いに基づく弔いの作法は、今日に至るまで培われてきた。災難死者は命を途中で断たれた者であり、非業の死を遂げたとされた。生者はその無念の死に思いをはせて悼み、鎮魂や供養の儀礼を執行し、歌舞音曲をもって慰め、また供養碑を建立して記憶にとどめ、後世に伝えようとした。それは今日民俗行事や郷土芸能として存続し、多くの供養碑や鎮魂碑として各地に残されている。たとえば今回の被災地東北には、「イタコ」「オガミサマ」などと呼ばれる巫女(みこ)が死者の霊を呼び寄せ、その思いを語らせる「口寄せ」の風習がある。また、未婚の者が亡くなった場合、山形では婚礼(ムカサリ)の光景を描いた「ムカサリ絵馬」の奉納が、青森では花嫁・花婿人形の奉納が行われている。あの世で結婚式を挙げさせて、若くして亡くなった死者の霊を弔うのである。この風習は「冥婚」と呼ばれ、地域を越えた広がりを見せている。ここには、死してもなお霊魂は成長するという霊魂観がある。
弔いと芸能
日本では、お盆(盂蘭盆会)になると死者の霊が供養され、盆踊りが各地で催される。岩手県では、「鹿踊り(ししおどり)」や「剣舞(けんばい)」(鬼剣舞)、福島県では「念仏踊り」などの芸能が、多くの地域で弔い法として行われている。これらは主に若者たちが担い、特に新盆の家々を門付け(かどづけ)して巡り、新しい精霊の成仏を願って舞い踊る。民俗学者の折口信夫によると、若者たちが念仏踊りを懸命に行うことが、早世した者や非業の死を遂げた者の霊魂も成長・成熟させ、往生へと導くとしている。ここにも、死してなお霊魂が成長するという霊魂観が見られる。死者と生者、この世とあの世とは、自らの成長・成熟プロセスにおいて、ともに連携し共存しているのである。
このような霊魂観は、もはやそれとは意識されないほどに薄らいでいるかもしれない。しかし、今回の被災により、いくつかの郷土芸能が存続の危機にあるとも言われる今だからこそ、連綿と受け継がれてきた民俗行事や郷土芸能の中にひっそりと息づく、こうした弔いの作法を改めて見直し、実践してみるよい機会となるのではないだろうか。