人間の知覚特性に基づく身体感覚
知覚は、感覚器からの刺激に対する神経システムの作動が基盤となって生じるが、人間は常に運動しているので、知覚と運動は独立に考えることはできない。これを知覚-運動系という。トップアスリートは、この知覚-運動系の特性をうまく利用している。例えば、日常生活でも、歩いているときに目の前に木の枝などの障害物が現れると、とっさに頭をよけるが、この反応は意図的に頭を動かすときより速い。西部劇の決闘では、最初にピストルを抜く者より、それに反応した方が勝つという設定が多いが、実はこれは人間の知覚-運動特性からみて正当なのである。それを実験的にうまく検証した研究もあり、相手の動きに非意識的に反応した方が速いことが示されている。
さて、今あなたが見ている視野を確認して欲しい。この文字を追っている部分を中心視、文字と同時に見えている携帯電話や自分の手を周辺視という。そして、中心視は意図的な反応に対応し、周辺視が非意識的な反応に相当すると考えられ、その反応時間は、周辺視の方が速い。
競技中のトップアスリートの時々刻々変化する視野は、中心視を相手の重要な動きの部位に置いて、周辺視では相手の身体の全体像を捉えるように変化させている。つまり、中心視と周辺視を運動の状況とともに使い分けて、効率的に相手の情報を得ながら相手の動きに素早く反応しているのである。
脳内部で行われる仮想的な身体運動
近年、脳科学の研究手法がスポーツ科学にも導入されている。ここで明らかにされた重要な点は、実際に身体を動かさなくても、その運動をイメージするだけで、運動に関与する脳の部位が活動することである。また、この活動は他者の運動や自己のビデオ画像を観察するときでも生じる。この発見は近年の脳科学でも重要な発見の一つとされ、ミラーニューロンシステムと命名されている。ただし、この脳活動は、その動きができない人やイメージできない人には生じないし、アスリートの中でも差が生じる。つまり、実際の運動と同様に、イメージの世界でも動きに関して差が生じるのである。相手の動きを見ることにも、トップアスリートは優れているのである。
腕をムチの動きのようにしならせるムチ運動ができる人とできない人が、ムチ運動を含む投球動作を何度も観察する実験がある。その動きには仕掛けがあり、徐々に肘(ひじ)関節の伸展のタイミングを変化させ、最終的に腕が一本の棒のようになり、ムチ運動が生じないようにするのだ。観察者は動きの違いが分かった瞬間にマウスを押すのだが、ムチ運動ができるグループの方が明らかにその違いを速く検出することができる。つまり、自己の運動能力が他者の運動の観察精度にも関与しているといえる。スポーツの達人の見る目が違うというのは、このためである。
実際の動きを伴わず脳内部で生じる仮想的な動きは、運動上達の秘訣ともいえる。それは、実際に競技場にいなくても、いつでも、どこでも、行える方法だからである。また、優れたコーチの重要な要素ともいえる。それは、選手の動きをあたかも自己の動きを追うように見ることであり、そのように見ることで、選手の動きの良い点や改良点が自己の動きの差として見えてくるからである。
つまり、トップアスリートは、競技場で実際に体を動かして練習するだけでなく、優れたコーチから自己の動きを見てもらうこと、自己の運動をイメージでシミュレーションすること、お手本とする動きを見ること、この繰り返しで様々な状況に対応できる精度の高い動きを学習しているのである。
極限の緊張とそれに打ち勝つパフォーマンス
サッカーのPK戦、フライングが許されない陸上100メートル走のスタート、バスケットボールのフリースロー、これらの局面では、見ている私たちにもその場の緊迫状態が伝わってきて、息苦しさを覚えるほどであるが、それがスポーツの醍醐味の一つともいえる。では、トップアスリートはこのケタ外れのプレッシャーの中で、緊張に押しつぶされることなく、いかにして実力を発揮しているのだろうか。これまでに、スポーツにおける緊張(あがり)とパフォーマンスの関係を検討した研究は、その関係が逆U字の関係にあり、あがりすぎるとパフォーマンスは落ちるが、ある程度緊張した方がパフォーマンスが高いことを明らかにしてきた。つまり、トップアスリートは緊張をうまく利用して、ここぞという場面で高いパフォーマンスを発揮しているのである。
緊張をうまくコントロールする簡単な例として、深呼吸がある。緊張状態の生理的特徴である心拍の上昇は自律神経の支配下にあり、意識的に下げることはできない。そこで呼吸を利用するのである。呼吸も自律神経の支配下にあるが、意識してそのリズムや深さを変えることが可能である。さらに、心拍の拍動リズムは呼吸リズムに影響され、微妙に変化するので、上昇した心拍をコントロールすることができる。
さて、あがりすぎの心的特徴として、注意が散漫になったり、あせりが生じたりする。当然、そこまで緊張するとパフォーマンスが落ちてしまう。それを心的にトレーニングするのが、前述の仮想的な身体運動である。仮想的な身体運動は、脳内部では実際の緊張場面のリハーサルとしても用いることができるからである。
また、実際の練習中に常に変化する試合の状況をイメージすることも重要である。例えば、ただボールをキックするだけでなく、PK戦や相手の動きをイメージしてキックをするのである。このような不断の努力を繰り返して、オリンピックという最高の舞台で緊張をうまくコントロールして、自己の最高のパフォーマンスを発揮しているのである。