細い糸ノコで慎重に歯を作っていくが、1本でも失敗すると使い物にならない。これが想像以上に大変だった。「歯引き屋さん」という専門職がいるほど、難しい加工である。これまでそれをやっていた職人を探して教えを請おうとしたが、自分の特殊技術を他者には教えないという風潮が根強く、しばらく粘ってみたが徒労に終わった。
そこで路線を変えて、町工場に依頼することにした。ものづくりのNPOの協力も得て、図面も製作した。しかし、町工場に発注するといっても、1種類につき多くても数十本程度。町工場にとっては、採算性が悪く、どこもとりあってくれない。
通常のビジネスでは難しいと判断し、独立行政法人の研究所などとの連携も模索したが、なかなか思うような成果は得られなかった。
新しいスキームで挑戦
こうした道具の復元活動については当時、公益財団法人トヨタ財団の研究資金を利用していたが、資金は不足気味で心細かった。そこで、インターネットを通じて寄付や協力を募るクラウドファンディングで「歌舞伎の櫛を復元したい」と一般市民へ支援を呼びかけてみることにした。12年8月から50日間支援を呼びかけた結果、67人の支援者から約70万円の資金が集まった。意外だったのは、歌舞伎になじみのない方からの支援も多かったことだ。多様な仲間ができ、それが課題を解決する大きなカギとなった。
支援者のなかに芸術大学の教員がいて「眼鏡の加工で知られる福井県の鯖江市に頼んでみたらいいのではないか」というヒントを出してくれたのだ。何のコネクションもなかったが、飛び込みで鯖江市役所に連絡をとったところ、優秀な行政マンが機敏に動いてくれ、あっという間に最適な加工会社を紹介してくれた。
いい勢いだったので、さっそく床山と一緒に鯖江の眼鏡加工会社の株式会社長井を訪問することにした。社長さんは歌舞伎を一度も見たことがないと聞いていたので、歌舞伎の写真集や現物の櫛を持参して、どんな風に使われるのかを説明した。復元してもらう櫛は、現代の私たちが使うように髪をとかすためのものではなく、日本髪に飾りとしてさすもの。すぐに抜け落ちるようでは困ることや、色味についても指定があるなど、細かな要望を伝えた。
わがままの多い注文になってしまったが、社長さんは「鯖江の眼鏡の技術が伝統文化の役に立つならうれしい」とあったかい笑顔。それに眼鏡の世界でもかつてはベッコウが高級フレームとして使われていた経緯もあり、ベッコウ色のアセテートの在庫もあるという。すぐに見せてもらうと、床山もひと目で気に入った。
こうして復元は順調に進み、13年8月、無事に櫛とかんざしを復元することができた。懸案の価格調整も素材や技術の類似点が多いことが幸いして、予算内にうまく納まった。復元に着手してから3年半が経っていたが、鯖江市にコンタクトをとってからは、アッと言う間で約5カ月での完成となった。
こうして復元された櫛とかんざしは、13年秋に歌舞伎座の舞台にデビューした。
レッドリストデータづくりと復元
歌舞伎の櫛のほかにも危機的な状況の道具はたくさんある。歌舞伎の有名な演目『助六』で使われる傘もそのひとつ。一般の和傘と同じようにも見えるが、舞台映えするように傘の開きは浅めにしてあり、大きさや色など細かな決まり事があるため特注品となる。こうした特殊な傘を作るには高い技術が必要であり、これを作れる店は現在1軒しかない。能楽の道具も調査を行っているが、危機的な状況にあるものがいくつかあり、今後も増えていくことが予想される。また雅楽で使われる篳篥(ひちりき)という笛のリード(舌)の材料も心配な状況にある。
伝統芸能の道具は、一般の人が消費する工芸品とは異なるビジネスモデルがあり、これまではうまく保存されてきた。しかし近年、そのしくみは弱くなりつつある。こうした状況については、どのジャンルの芸能でも、なんとなく危機感は抱いている。だが、どの種類の道具が、どのくらい危機に陥っているのか、だれも数値として正確に把握できていないのが現状だ。
そこで道具ラボでは危機的な道具がだれでもわかるように、生物学のようなレッドリストを作ることを提案している。全体の概況を捉えることができれば、どれを優先して復元すべきかを判断でき、また類似したものを一緒に復元するなどの効率化がはかれる。
また、国や企業、市民へ支援をお願いする際も、客観的なデータがあれば説得力がある。ただ「危ない」と叫ぶだけでは、具体的な解決への行動ははじまらない。
現在、道具ラボでは、レッドリストデータの作成と、道具の復元の二つを軸足に活動している。
伝統の世界と一般社会を「つなぐ」
歌舞伎の花魁の櫛を研究資金や市民の支援金を利用しながら、眼鏡の技術で復元する。これは既存の枠組みを越えた新しい試みだった。ずっと手探りで苦労も多かったが、よい出会いも多くエキサイティングでもあった。道具ラボがさまざまな復元や調査に関わることで、道具ラボに復元のノウハウや知見が蓄積される。それはいずれ他の復元にいかすことができるだろう。そして道具ラボがハブとなって、伝統芸能の道具が抱える課題を外の世界へ開いていく。多様な専門家からアドバイスをもらったり、異業種と連携したり、共感した人から資金を集めたりすることで、復元や調査は加速していくと考えている。
伝統芸能の道具には、手仕事を通じて日本人の身体に刻みこまれた技術や知恵、美意識、思想がぎっしり詰まっている。それを未来へ継承するための新しいネットワークを築いていきたい。
助六
歌舞伎の宗家とされる市川團十郎家のお家芸である「歌舞伎十八番」の一つ。吉原が舞台で、侠客の助六と花魁の揚巻(あげまき)がメインの登場人物。江戸文化の「粋」がたっぷり感じられる華やかな人気演目。1713年(正徳3)初演。