骨を読み解く学問
このように、骨を読み解くことで情報を得て、その情報を集積してある集団の特徴を明らかにし、さらには人類という生物の進化を研究している学問を「自然人類学」と言います。ヒトという生物が研究対象ですので、理科系の生物学に属する分野ですが、研究対象はミイラや人骨ですので、医学部の肉眼解剖学と深いつながりを持ち、さらに遺跡などから出土するため、考古学とも強いつながりを持っています。また、研究内容によっては、病理学、遺伝学、民族学、歴史学などとも関係する、学際的な傾向の強い学問分野と言えるでしょう。よく考古学者と間違えられてしまいますが、考古学者は人が作り出したモノ、例えば石器や住居の跡などが研究対象となる一方、自然人類学者は人の「からだ」そのものが研究対象です。一緒に調査・研究することはよくありますが、興味の対象が違いますので、あまり喧嘩(けんか)になったりはしません。
イギリスの著名な女流作家アガサ・クリスティは考古学者と結婚しましたが、こんなことを言っています。『女性にとって考古学者は最も素晴らしい夫です。年を取れば取るほど、興味を持ってくれますから』この賛辞(?)は考古学者よりも、自然人類学者の方が当てはまります。なぜなら、考古学者は妻の作り出したモノに興味を引かれるかもしれませんが、自然人類学者は妻の「からだ」だけを愛するからです。
骨の研究の深さと面白さ
残念なことに、日本における自然人類学者はかなり数を減らしており、教育機関も東京大学、京都大学、九州大学といった大きな大学にしか存在していません。また、普及活動が不十分のせいか、一般の方々における認知度も非常に低いのです。たまたま質問されようものならば、「人骨なんて不気味なもの」がいかに素晴らしいかを熱く語り、周囲をドン引きさせてしまいます。私も人骨やミイラを愛して止(や)まない、自然人類学者の一人です。実の親兄弟からは呆れられ、少ない友達はさらに少なくなり、子供には変な親を持つ苦労をさせてしまっています。
「この奇妙で面白い学問を一般に知らしめるにはどうすればよいか」、これは大学院にいたころから私にとっての命題となっていました。これに対する自分なりの答えを見出せたのは、ある医学系大学の教授が声を掛けてくれた時からです。
「この骨から何か情報を引き出せますか?」と、その教授から見せられたのは、子供の人骨でした。この骨は警察が墓地で発見したもので、その法医学教室に持ち込まれたものです。この人骨は非常に独特なもので、次のような特徴を示していました。
(1)歯の年齢は5歳前後なのに、骨の長さは3歳程度である。成長阻害があった可能性がある。
(2)頭蓋骨に亀裂が走っており、しかも部分的に治癒している。子供の頭蓋骨が骨折するような状況にあったにも関わらず、医学的な処置が行われた形跡はない。
(3)左右の大腿骨(太ももの骨)に、外傷を受けた後に血だまりができ、その血だまりが骨となってしまう、外傷後性骨化性筋炎という症状が見られた。しかも大腿骨の断面形状は円形ではなく楕円形に変形していた。これらは頻繁に太ももに打撃を受けていたことを意味しており、しかも医学的な処置が行われていない。
これらの情報を教授と議論を重ね、「亡くなった子供は恒常的に虐待を受けており、その結果、致命的な傷を受けたにもかかわらず放置され、死亡した」と結論づけました。この事件をきっかけとして踏み込んだのが法医学の世界です。
だから骨の研究と向き合う
法医学分野に関わることは、「速やかかつ正確な情報を骨から読み取る能力が鍛えられる」「読み取った情報の答え合わせができる」「骨から情報を得る新しい手法を開発し、それを昔の人骨に適用できる」「一般の人たちにもわかりやすい形で社会貢献できる」といった、自然人類学者にとってのメリットがたくさんあります。もちろん、自分の読み取った情報に人の生き死にが関わっているため、緊張感と責任感を持って鑑定を行う必要がありますし、法医学分野での自然人類学者の働きが表立って評価されることもありません。
また、現状では、「訳のわからない専門家の証言」と言わんばかりに、裁判などでは軽視されてしまう傾向にあります。自分の踏み出した一歩に対して徒労感と後悔を覚え、焦燥感や絶望から眠れぬ夜を過ごすこともままあります。それでも、骨を見たくなる、関わりたくなるのは、自分に出来ることを最も必要としているのが骨の持ち主である、という妄想に近い信念と、過去を知りたいという知識欲、そしてやっぱり骨が面白いからだと思います。