足から下だけの人影が道路を!?
幽霊が存在するかどうかは今もって不明だが、その存在を感じている人がいるのは事実である。宮城県内の宗教者(主に僧侶)を対象に、13年に行ったアンケート調査では、回答者の4分の1程度が「実際に“心霊現象”を体験したという人に会ったことがある」と答えている。大勢の死者の姿が海の中にいるのが橋の上から見えた、足から下だけの人影が道路を渡っていた……そんなたぐいの話は珍しくない。
「あれだけのことがあったのだから、幽霊ぐらい見ても不思議じゃない」
これは被災地の宗教者から、しばしば聞かされた言葉である。「あれだけのこと」というのは、一言でいえば「津波で大量の死者が出た」という圧倒的事実である。例えば宮城県石巻市では、大人も子どもも、知人だけではなく、どこの誰とも知らない人の遺体を目にする機会が多かったという。スーパーの2階に避難した人々は、階段に折り重なる遺体を踏み分けるようにして、外に出なければならなかった。行方不明の家族の姿を探して遺体安置所をめぐり、貼り出された写真を手がかりに、遺体との対面を続けた人も多い。冷たい床に並べられた遺体を見て、「早く泥を落としてきれいにしてあげたい」「シーツ1枚でもかけてあげたいと思った」という言葉も聞かされた。
浮かばれない死者の霊が現れるという観念は、日本中どこにでもある。そこで今回の東日本大震災の津波被災地に特有の事情を考えてみると、東北地方では今日でも仏教(多くは曹洞宗)が大切にされており、まず火葬を済ませ、僧侶が葬儀をすることで死者が成仏する、という感覚が根づいている。
しかし被災直後の混乱期には、近隣の火葬場が手配できず、ガソリン不足で動かせる車も少なく、葬儀に参列できる人は限られた。海の中には弔いの済んでいない遺体もまだ数多く沈んでいたし、行方不明者の親族の中には、半年、1年と葬儀を出す決心がつかないでいる人もいた。葬儀は故人に別れを告げ、気持ちに区切りをつける機会となるものだが、被災地ではそれが不十分なままであった。
つまり弔いの不十分な死者が、「幽霊」として現れたのだと考えられる。それを「恐ろしいものに感じた」とうわさになるのは、その死者が見ず知らずの物言わぬ死者、いわば言葉を奪われた存在であることが理由にあげられる。逆に親しかった身内であれば、「幽霊でもいいから会いたい」という存在になり、残された者を見守る心の支えとなることもある。
幽霊ぐらい見ても不思議じゃない
一昔前までの東北には、葬儀後に「カミサマ」などの名で呼ばれる宗教者に依頼して“口寄せ”という降霊術を行い、死者の声を聞くという風習が残っていた。今日でも青森県の霊場・恐山(おそれざん)へと出かけ、「イタコ」と呼ばれる霊能者から故人の言葉を聞く人はさほど珍しくない。死者のメッセージを聞きたいという思いは、それほど東北の人々の意識の中に入り込んでいる。こうした背景と、避難所や仮設住宅でのストレスの多い生活状況を考え合わせると、「幽霊ぐらい見ても不思議じゃない」という言葉には説得力を感じる。
宗教者のもとに寄せられる相談には、「幽霊が見える」というよりは「漠然と気分がふさぐ」とか「海に近づくと体調が悪くなる」などの感覚を死者の霊の影響と考え、供養やお祓(はら)いを求めるものが多い。「死者の霊にとり憑(つ)かれた」という訴えもある。見捨てざるを得なかった人の「助けて」という声が耳について離れないとか、行方不明の知人が話しかけてくる声が聞こえる、といった話もある。
そのような相談が増えてきたのは、震災後半年から1年が過ぎた頃だと語る宗教者が何人かいた。それは、衣食住の確保に追われる日々が過ぎて生活が一段落し、落ち着いてわが身を振り返れるようになった時期であり、ようやく葬儀を出すことができて親族が顔を合わせ、故人を思い出すことになる時期でもある。心のケアに対する支援が、もっとも必要となる時期を考えるうえでも示唆的な証言だ。
ところでこうした相談に、寺の僧侶たちはどう応じているのか。地域の習慣や師僧から習って身につけてきた方法をもとに、臨機応変の対応をしているように見えて、実は宗派ごとに決まった対応があるわけではない。仏教の教理的な立場からは、「成仏できない死者の霊が、あたりをさ迷っている」という見解は出てこないので、それは当然なのである。
しかし、目の前に「何とかしてくれ」と言ってくる人がいる以上、何らかの対応をしなければならない。そのため基本は大体同じで、死者供養のために読経を行う。そこに真言を唱えたり、太鼓などの鳴り物を入れるといった、宗派の特色が加わる。神社であれば、お祓いをしてお札を渡したりする。
これが済むと、ほとんどの依頼者から「すっきりした」「楽になりました」という言葉が聞かれる。多くの場合、日がたつにつれて自然と問題が解消し、平穏な日常が戻るのである。
東北人の宗教観と幽霊との関係
今回の調査で印象的だったのは、多くの寺で僧侶が2時間でも3時間でも、実によく依頼者の話を聴いている、ということだ。彼ら自身は幽霊を信じていないことが多いが、「そういうこともあるかもしれませんね」という態度で、訴えを否定せずに受け止めている。そして、気持ちが落ち着くのであればと読経等の儀礼を行う。否定せずに話を聴きつつも、「死んだ人の霊が悪い影響を与えるということはありません。大切にご供養していきましょう」と、教育的な言葉を必ず付け加えるのも一般的な特徴だ。
というのも、彼らのもとへ「霊」の悩みで相談に来る人の中には、「拝み屋さんに言われて来た」という人が多いからである。「拝み屋さん」とは民間の宗教者で、「あなたの問題は死者の霊の影響だから、どこそこのお寺で供養してもらいなさい」というようなことを依頼者に告げるのである。東北地方では祈祷師(きとうし)による祈祷、神社でのお祓いなど、今でも必要に応じて宗教が使い分けられており、はた目には多様な宗教が友好的に共存しているように見える。しかし相談を受けた僧侶の思いは複雑であり、自らの信じる死生観に基づいて、時には教育的な言葉を用いるのだ。
といって「東北はいまだに『遠野物語』の世界だ」と考えることもない。日々生じる不安やストレスをキャッチして、感情を整理するための伝統的な宗教文化のチャンネルが、まだいくらか残っているだけのことである。あの世や死者の霊を語る言葉や概念にしても、ここ数十年は情報化の波の影響が大きいので、都市部に暮らす人々とそう大差はないのではないかと思われる。イタコが年々減少しているように、こうした霊にまつわる宗教的習慣も、近い将来には消えていくのかもしれない。
被災地の「幽霊」がもたらすもの
ただ伝統的な宗教文化は消えても、人間の心の問題が消えてしまうことはない。葬儀を済ませても、親族の前では口に出せない思いをいまだに抱え込んでいる人や、知人の死で自分を責め続けている人がいる。人間関係や金銭問題など、生活再建に関わるさまざまな不安と、大量の死者の存在とが重ね合わさった時、それが「幽霊」という形で表現されることもあるのだろう。被災後は多くの専門技能を持つ支援者が入ってきたが、医療関係者やソーシャルワーカーでは、このように表現される悩みには対応できなかった。唯一真剣に向き合ってくれるのは、霊感商法などを行う怪しげな宗教団体だけ、というのでは問題である。僧侶による傾聴活動が、被災地で歓迎されたのもそのためだ。彼らならどんな話でも、しっかりと聴いてくれる。
生身の人々の苦しみを受け止める時、宗教者が学んできた教義や教えがそのまま役立つわけではない。目の前の相手にしっかりと向き合うことが、必要なのである。宗教・宗派を超えた連携によって、心のケアを行う宗教者が必要であるという観点から、東北大学から「臨床宗教師」養成の試みが始まったのも同じ趣旨である。
「幽霊」という表現で語られる、問題の背後にあるものは何なのか。