心強い専門家に出会う
――その当時だったら、対策としては、まずは放射能対策ですね。大友 フェス開催については、まだ線量が高い時期だったし、本当にやっていいのかって葛藤がありました。じゃあ、どうする? 判断できる人を探そう、ということで、木村真三先生にたどり着きました。
木村先生は、震災直後に、厚生労働省所轄の研究所に辞表を出して、福島に入って放射線量を測ってデータ化していた人で5月にNHKのEテレで放送された「ネットワークでつくる放射能汚染地図」という番組で知りました。私の知る限り、この番組が包み隠さず汚染状況を正確にメディアで伝えた最初の番組だったと思います。この番組で中心的な役割を果たしていたのが木村先生です。先生にお会いしてまずは「福島でフェスをやりたいんですが、できますか」って相談をしたんです。「可能かどうか、まずは会場候補地に実際に行って調べてみましょう。そうしたプロセスを全部見せていけばいいんです。大友さんたちの見つけてきた候補地の線量であれば、おそらく対策を練ればやれるとおもいますよ」って言ってくれて、放射線衛生学者の先生にそう言ってもらえたときは、本当に涙が出ました。
会場として予定していた四季の里もあづま球場も環境測定の専門の業者に協力してもらい徹底的に調べました。福島市の中心地より線量はかなり低い。あづま球場に至っては東京とさほど変わらない。福島市内の人たちには「来て」と言える状態でした。でも、東京など他の地域と比べれば無論高いわけで、そのことを隠して積極的に来てとは言えない。僕らは線量を測っている様子からその結果まで全て公表しました。その上で、専門家の考え方も示し、来るかどうかは、それぞれの人が判断してほしいというメッセージを出しました。福島を実際より良く見せるのでも、悪く見せるのでもなく、現状をありのままに見えるようにするところからしか、何も始まらないと思ったからです。その考え方は今も間違ってなかったと思っています。当時、国が隠しているんじゃないかという疑いに対する、僕らの側の回答のつもりでもありました。
そんな活動を見て、いろいろなところから参加したいとか、関連イベントをしたいという申し出がたくさん来るようになりました。ただ、少ない人数で資金もなくやっていたことでもあるので、とてもそっちまでは手が回らない。そこで、「世界同時多発」と銘打って、特定の宗教とか政治団体、企業などの広報に使うのでなければ、それぞれの場所で自由にやってくださいという形にしたんです。もう皆それぞれが思うように自由にやってと。だから、海外も含め、僕らの知らないところでも関連イベントがたくさん行われてたみたいです。
――会場に敷いて話題になった「大風呂敷」はどなたのアイデアだったんですか?
大友 もともとは木村先生のアイデアです。で、それを「大風呂敷」という名前にして大きなプロジェクトにして誰でも参加できるようにしたのは水戸の美術家の中崎透です。さらにそれを具体的に制作する段になって中心的に動いてくれたのは福島の建築家のアサノコウタです。もちろん特定の個人だけで動いたのではなく、中崎、アサノの二人に加え制作で美術の制作を専門にしてる坂口千秋が入ったり、映画の美術をやっている小池晶子さんが入ってきたりして、どんどん具現化していったんです。
もちろん、風呂敷では放射能は防げません。ただ当時は、放射能の発信源はほぼセシウムだけになっていて、セシウムは空中ではなく、地面にあったんです。要は、それが舞い上がらないように、体につかないように、口から入らないようにするために風呂敷を敷こうという発想だった。実際に安全にしたいということに加えて、目には見えない放射能やセシウムを可視化させることで、メッセージになるんじゃないかなという思いもありました。
せっかくだから、みんなで風呂敷を持ち寄って縫い合わせようという木村先生の意見に賛同したものの、これが大変な作業でした(笑)。木村先生は多分、持ち寄ってその場で敷くイメージだったと思うんですが、中崎くんは、はっきりとそれを縫い合わせて会場を覆い被せるイメージを持ってました。でも、この大変な作業があったからこそ「大風呂敷」は今でも続く祭りの根幹のようなプロジェクトになっていったんだと思います。
大風呂敷プロジェクトが立ち上がると、それこそ北は北海道、南は沖縄まで大量の風呂敷が届きました。実は父がかつて電気工場をやっていて、すでに使われなくなっていた実家の工場を使って、そこに皆でミシンを運びこんで、この集まってきた膨大な量の風呂敷をみんなで縫い合わせることにしたんです。服飾デザイナーのようなプロもいれば、近所のおばちゃんや、南相馬から避難してきた人もいました。新進気鋭の美術家やキュレーターと、近所のおばちゃんが、私の実家だった工場で世間話をしながら縫い物をしてる図はなかなかなものでした。わたしも1年目は一緒に縫いました。オレのやったところはガタガタで下手くそでしたが。
会場に敷くのは6000平方メートル。これだけ縫い合わせるのに約1カ月かかりました。皆泊まる場所もなくきてたんで、実家が旅館のような状態でした。今現在「プロF」のリーダーをやっている山岸清之進くんも立ち上げ当初からガッツリ関わっていて、彼の実家がそれこそ飯坂温泉の「清山」って旅館なんです。そこから布団を借りてきて、多いときで実家に30人くらい泊まってました。丸5年経った今でも風呂敷工場は私の実家の電気工場跡で、そこが事務局にもなってます。山岸くんの旅館も遠くから来る人たちの宿泊先に使わせてもらったりイベント会場やワークショップ会場になったりで、僕ら、皆、いい歳なのに、ものすごく実家の世話になっていて、親に頭が上がりません。
8月15日縫い上がった大風呂敷を会場に敷いたときは本当に感動しました。福島市郊外の四季の里という芝生の広大な公園が全くの別世界というか、祭りの空間に一変したんです。しかも実に綺麗で、それを見たときの感動たるや、本当に今でも思い出すだけで泣きそうです。「これ、俺たちがやったんだ!」って。その瞬間は放射線対策だったことなんてどっかにいっちゃって、芝生に寝っ転がる奴もいて、オイオイですよ(笑)。でも、今必要なのはこれだって、祭りが必要だって思ったのはこれだったんだって、強く確信した瞬間でもありました。
抵抗感のあった盆踊りも気づけば…
――第3回(13年開催)から始まった盆踊りも話題になりました。大友 2年目からはメンバーに地元の人が多くなってきて、盆踊りって声が上がってきたんです。ミチロウさんや和合さんもやりたがってました。でも、僕は聞かないふりしてたんです(笑)。いや、本当に盆踊りとか盆踊り的なものが苦手で大嫌いだったんです。「ダッセー!」って思うわけですよ(笑)。
でも、第2回が終わった頃から抗しきれない感じになって、やるかやらないか悩みました。そんなとき、僕が音楽を担当したNHK連続テレビ小説「あまちゃん」(13年4月~9月放送)に、画期的な言葉が登場したんです。
「ダサいくらい、我慢しろよ」
この言葉で一気に「ダサい」という言葉の呪縛から解放されました。いやね、田舎から東京に出てきた人間にとって「ダサい」って言われることほど嫌なことないんですよ。そんなこと意識していたわけじゃないけど、多分そういう意識が働いて、そういうものを強く避ける習性がついてたのかな。「宮藤さん(「あまちゃん」脚本担当の宮藤官九郎)、すごい!」って思いました。おかげで自分の中の呪縛から解放されたわけですから。宮藤さんには大感謝です(笑)。あ、でもね、盆踊りが嫌いだったのは福島に住んでた頃からだから、別に単にダサいとかだけじゃなく、本当にああいうの苦手だったってことなんです。でも、皆がそこまで言うならやってみるかって思うようになりました。ダサいくらいなんだよ、我慢しろよです。
そんなわけで第3回目の夏のフェスでは裏方に回るつもりだったんです。盆踊りのお手伝いをするくらいの感じで。なのに、盆踊りが面白くなってしまって、気づいたら一番前で率先してやってました(笑)。
――翌14年には、札幌国際芸術祭でも盆踊りが行われましたが、「プロF」と関連があるのですか?
大友 13年の盆踊りの模様が、「DOMMUNE FUKUSHIMA!」で配信されたんです。