明治維新から150年を迎える2018年、西郷隆盛が主人公のNHK大河ドラマ「西郷(せご)どん」がスタートする。西郷が生まれ育った鹿児島市加治屋町には大河ドラマの世界観が体験できる「西郷どん 大河ドラマ館」がオープン予定で、地元は今から盛り上がっているという。その西郷を「戦前と戦後で歴史上の人物への評価が大きく変わる中、彼だけは一貫して慕われ続けている。とても不思議な人物だ」と絶讃するのは、「全一冊 小説 上杉鷹山(ようざん)」や「全一冊 小説 直江兼続(かねつぐ)」(共に集英社文庫)など、歴史上の人物の作品が数多くある作家の童門冬二氏だ。なぜ、西郷は日本人の心をとらえてやまないのか? 童門氏に聞いた。
西郷隆盛の人気は不変
私はこれまでの歴史的人物を取り上げた作品を約600作発表してきた。その中で繰り返し取り上げているのが織田信長、坂本龍馬、そして西郷隆盛である。私にとってこの3人は得体の知れない巨人であり、すこぶる魅力的な人間だからだ。
その意味も含め、2018年は明治維新から150年なので、NHKが西郷隆盛を取り上げるのは公平な維新史を描くのに適した人物の選択だと思う。
日本人の偉人や英雄に対する評価は、第二次世界大戦を境に大きく変化した。昨日までは褒めそやされていた人々が、今日は戦犯と呼ばれ石礫(いしつぶて)を投げつけられた。楠木正成、二宮金次郎などはその代表だ。明治維新においての立役者も同様だ。西郷がらみで言えば、長州藩兵として長州征討や戊辰戦争で活躍、実質上の陸軍の祖とも言われ、実体的に西郷の立場を貶(おとし)め、西郷の職位を奪って英雄視されていた大村益次郎も、戦後は評価が下がった。
しかし、藩命により奄美大島に潜伏したり、徳之島や沖永良部島に流刑されたりした経験があり、国家反逆とも言える西南戦争(1877)を主導したにもかかわらず、地元はもちろん、汎日本的にも西郷の評価はずっと変わらなかったし、西郷は今でも変わらぬ人気を誇っている。
西郷の苦難に満ちた一生
なぜ日本人は西郷隆盛を支持し続けるのか? 私の贔屓目(ひいきめ)になるかもしれないが、その理由を語ってみたいと思う。
その前に、西郷の人生をおおまかに追ってみよう。
このように貧しい家の出ながら、西郷は名藩主の誉れ高い島津斉彬(なりあきら)の抜擢で側近く仕え、立身出世した。その後は、島流しの憂き目に遭ったものの、雄藩の同志と手をつなぎ、倒幕の大栄を成し遂げた。勝海舟と共に江戸城の無血開城を行い、戦場となることを回避させ百万の江戸市民を戦火から救った。しかし最後は、西南戦争で朝敵となり死を迎えることになる。
私は、西郷自身は西南戦争に反対だったと考える。しかし、元号が明治となり士農工商制度がなくなり、かつて武士であった人々の失業という窮状を見て、立たないわけにはいかなかった。特に薩摩藩は武士の比率が30%超と、江戸時代における各藩(大名家)の藩人口に対する武士の比率である平均の約15%に比べて倍以上だったから、不満を持つ下級武士も多かったことだろう。
それまで、幾多の苦難を切り抜け苦労してきたぶん、人の痛みを理解し思いやる西郷ならではの、決断だった。判官贔屓(ほうがんびいき)の多い日本人に愛される理由がここにある。
西郷の魅力を解き明かす言葉
西郷の人柄について尋ねられた時、私はいつも、坂本龍馬が師の勝海舟に語ったとされる西郷の第一印象を思い出す。曰く「得体の知れない人物です。不気味な太鼓のようであって、小さく叩けば小さく響き、大きく叩けば大きく響く」。これは以心伝心、坂本が自身は自分では小人物と謙遜してこう告げたが、勝のような大人物相手にはそれなりの対応ができる臨機応変な人物であるという意味だ。確かに、善きも悪しきも西郷は相手次第で態度を変えることがあったようだ。
そして、西郷がよく口にし、揮毫(きごう)したことで知られている「敬天愛人(「天を敬い、人を愛する」の意)」もまた、彼の魅力を表す言葉である。この信条に達するには、米沢藩の財政を立て直した名君との誉れ高い上杉鷹山などの名改革者たちが、その改革のテキストとした江戸時代の儒学者の細井平洲(ほそいへいしゅう)の「嚶鳴館遺草(おうめいかんいそう)」からも大きな影響を受けている。
西郷は、安政5(1858)年、自分を引き立ててくれた斉彬や、殉死を引き留めてくれた月照(げっしょう)とも、今生の別れを経験する。月照という僧侶は、反幕運動にかかわったとして幕府から指名手配されていた。そこで、西郷は彼を連れ薩摩に帰郷、匿うことにした。しかし、斉彬の死により、西郷とは相容れない島津久光の子、忠徳(ただのり、後の忠義)に藩主が代わったことで、藩には受け入れられず、月照と共に錦江湾に入水、西郷だけが助かる。薩摩藩は、幕府の手前、西郷も死んだものとし、菊池源吾と改名させられた西郷は、翌年奄美大島に島流しとなった。
このように流転する自らの人生から西郷は運命、天命というものを実感した。そして、天を相手にしていると思えば謙虚になれると語っている。
奄美大島の潜居生活では、当初は上から目線で琉球支配の島の人間を「毛唐(けとう)」と差別的な呼び方をしていた。西郷にとって、薩摩がいちばん、今ふうに言えば「薩摩ファースト」であり、武士気質の階級意識もあって、自分と島の人間は別なものと考えたのだ。
それでもなついてくる子どもたちを相手に塾をつくり、次第に周囲に溶け込み交流が生まれていく。島の娘、愛加那(あいかな。「かな」は「ちゃん」の意味)を妻とし子どももできた。帰藩の際、藩法により愛加那は同行できなかったが、息子の菊次郎は本家に引き取られ、大事にされた。周囲の人を愛し、そして周囲の人から愛される人物だったのだ。ちなみに、菊次郎はのちに第二代京都市長となった。
西郷の語った言葉を集めた「西郷南洲遺訓(さいごうなんしゅういくん)」も西郷を知る手がかりとなる。西郷は、戊辰戦争後に親幕派の庄内藩(現在の山形県鶴岡市)に対して下った処分を、軽くするようにと進言し、救済したことがあった。
それに感動した庄内藩藩主一族や家臣の一部が、明治になってから鹿児島の一介の農民生活をしていた西郷を訪ね、そのまま寄宿し、起居を共にした。