その際に書き留めた西郷の言葉などを、雅号である南洲を冠しまとめたものが「西郷南洲遺訓」であり、私は座右の書にしている。
ライバル大久保利通との比較
西郷隆盛といえば、多くの人が上野公園の銅像を思い出すのではないだろうか。
1898(明治31)年の銅像の除幕式で、西郷の妻糸子が、「うちの主人はこんなお人じゃなかったとですよ」と言った。だから西郷はあんな顔じゃなかった、という説が少し前に話題になった。
この像は、明治政府に招聘され、明治天皇の肖像画も手がけたイタリアの画家エドアルド・キヨッソーネが、弟の従道(つぐみち)やいとこの大山巖(いわお)の顔から想像して描いた似顔絵が元になっている。それを参考に、当時の彫刻家の第一人者であった高村光雲が制作したものだ。本人にそっくりとまではいかなくても、まったく違う風貌の銅像を、遺族の意思を無視して建立したとは思えない。その後、糸子の真意は、浴衣姿で人前に出るような失礼な人ではなかったという説が有力になった。
地元の人物を取り上げた作品が多いことで、様々な地方から講演を頼まれることがよくあり、鹿児島にも私は何度か足を運んでいる。その際、鹿児島市立美術館の近くに建つ陸軍大将の正装の像、霧島市西郷公園の紋付袴姿の像を見た。また島流し先の沖永良部島の西郷南洲記念館には牢の中で座禅を組む像がある。上野公園の像は軽装だが、だからこそ誰もが身近に感じることができ、今でも多くの人に親しまれているのだと思う。
私が知る限りでは、ライバルの大久保利通(としみち)の銅像は一体しかない。1979年、翌年の NHK大河ドラマに薩摩藩と会津藩の架空の藩士を主人公に、幕末から明治を舞台とした「獅子の時代」が決定した。さらに、79年は大久保の没後100年ということもあり、鹿児島市内のライオンズ公園に建てられたのがこの像である。大久保が暗殺された紀尾井坂(東京都千代田区)近くの清水谷公園には1884年建立の哀悼碑があるが、訪れる人もまばらと聞く。
西郷はセンチメント、「情」を重んじたロマンチストであり、詩人的要素があった。一方、大久保はインテリジェンス、「知」の人だ。いきおい、非情な成果主義者でもあった。この対立構造も二人の人気を左右している理由ではないか。
大村益次郎も大久保と同様で知の人であり、一部のエリート層には彼らのほうが支持されるかもしれない。しかし社会に圧倒的に多いのは平凡な中間管理職層だ。成果主義(知)だけでなく、コツコツと自分の仕事にうちこむ努力主義(情)者だ。一生、組織から離れず、組織に尽くした西郷は、完全な努力主義者である。だから西郷がトップを占めても、中間管理者たちからも支持を集めた。さらにIT社会が進んだ現代の成果主義の中で、居場所をなくしたと感じる人々は、一所懸命な人間の誠意や努力を評価すべきと主張していた西郷になおさら共感することだろう。
多くの人材を輩出した薩摩の郷中教育
薩摩には「郷中(ごじゅう)教育」という藩伝統の縦割り教育制度があった。郷中とは今でいう町の自治会組織のようなもので、鹿児島城下の地域をいくつかの「方限(ほうぎり)」に分け、その方限ごとの組織内で年齢が上の者が下の者の面倒をみるというものだ。郷中教育は鹿児島城下だけではなく、薩摩藩の他の城下でも行われていた。
現在「縦割り」という言葉はあまり良い意味で使われていない。しかし、私はこうした地域に根ざした制度、年長者が年少者を指導する自主的な取り組みといったものが、人間関係が希薄になりすぎた現代社会には必要だと考える。年長だからと威張るのではなく、年少者をいたわり、助け、指導することは、社会に出てからも役に立つ。
このような制度があったことで、薩摩藩は西郷や大久保、村田新八、大山巌、東郷平八郎など多くの人材を輩出することができた。当時は薩摩藩に限らず、各藩に藩校や郷校(郷学)、私塾が数多くあり、下級武士であっても多くのことを学べた。そして、その中から西郷のような大人物が輩出されたのだ。
明治以降、こうした藩校や郷校などを前身とする学校が地方にでき、今も残っているものもある。そこからは、同様に多くの人物が輩出されてきた。今も昔も、国づくりにとって教育が重要な役割を果たすことに変わりがないということだ。
西郷から学ぶべきこと
最後にもう一つ、西郷の魅力を語ると、「風度(ふうど)」が備わった人物ということだ。
風度とは、昔の武将などによく使われた言葉で、「あの人に“なら”ついて行こう」「あの人“らしい”振る舞いだ」と思わせる風格、オーラを表す。他藩の人間が、それも遠方からわざわざ薩摩に移り住んで西郷の語録をまとめたり、他人をおもんぱかり西南戦争を率いたりと、西郷の風度を示すエピソードには枚挙にいとまがない。それは人の痛みを知り行動し、常に切磋琢磨した西郷に備わった徳である。
これは現代人にも通じることで、上に立つ者はこの風度を忘れてはならない。トップだけではなく、係長でも課長でも部下がいれば、「あの人に“なら”」、「あの人“らしい”」と言われるような人間になることだ。これは会社に限らず、どんな小さな組織にもいえることだ。そうすれば、皆のモラール(士気)もアップする。
私は多くの歴史的人物を題材にしてきたが、いつも一人の理想像として書いてきたつもりである。西郷であれ信長であれ、上杉鷹山であれ直江兼続であれ、その人物に潜む自分と同質性のものを発見し、そこに力点を置いて書いてきた。様々な人物に投影したその同質性をまとめれば、私の理想の人間に果てしなく近づく。
また、私が、信長と龍馬、そして西郷を得体の知れない巨人と言ったのは、何度書いてもまだ何かがあると思わせてくれるからだ。歴史上の人物にとって、作家は所詮他人であって、西郷を書いてもそれはあくまで私の主観の入った、言わば「童門隆盛」でしかない。だからこそ、新しい資料の発見で人物の解釈が変化したり、私が年を経たことで人物への見方が変わったりして、再度書きたくなるのである。
しかし、私は西郷のすべてを見習えとは言わない。学ぶべきものと学んではいけないもの、双方がある。「知」と「情」どちらも、一辺倒では滅びてしまうからだ。