もう戦争はやめよう、何か問題があっても戦争で解決するという方法は避けなくてはならない、その責任を自分たちは膨大な死者たちから背負わされているんだという感覚があり、9条を変えることはその「死者の声」を断絶させてしまうことではないかという恐れがあったのだと思うのです。
しかし、現状に至って、その感覚や恐れすら一切を無意味にしてしまう人間が、国のトップに立ってしまった。これはもう、「立憲」ということを考え直さなければ、全てが崩壊してしまうのではないか。そう感じるようになりました。
社会への「そんなにひどいことはしないだろう」という信頼については、想田さんもウェブ連載でのコラム などで同じように書かれていましたね。
想田 はい。牛窓での撮影中、国会では秘密保護法の審議が進んでいたのですが、周囲ではそれが全く話題になっていませんでした。それを見ていて、牛窓の人たちだけではなくこの国の多くの主権者にはベースのところに、他者や社会システムに対するある種の「信頼感」があって、だからこそ秘密保護法成立のようなめちゃくちゃなことに直面しても、特に抗うことなく静観してしまうのではないか、と感じたのです。「確かに危険な感じもするけど、日本政府はそう悪いようにはしないはずだ」とスルーしてしまうのですね。
僕自身も、実は以前は日本のニュースはほとんどチェックもしていなかったんです。ニューヨークに住んでいるということもありますが、別に僕が何か気に掛けなくても、勝手に社会はいい方向に行くだろうという信頼感みたいなものが大きかったんですね。
その信頼が、僕の場合は東日本大震災でガラガラッと崩れて。日本政府の対応や社会の雰囲気を見ているうちに、これはまずいなと思って、ニュースを追ったり、政治について発言したりするようになりました。
中島 本来は、そんなことをしなくていい社会が「いい社会」というものなのでしょうが……。
想田 少し前の日本のように、「暗黙知」や先人への敬意といったものが確固として共有されている社会というのは、実は非常に効率のいい社会でもあります。お互いに「こういうことはしないよね」という、口にしなくても通じるルールがあるから、あまりみんな疑心暗鬼にならずに日常生活を送れるわけです。
例えば、海外の会社と映画の権利についてやり取りをする時も、その契約書の長さが国によって全然違うんですね。とにかく長い、分厚い契約書を出してくるのがアメリカ。事細かに書いて確認しておかないと信用できないという感覚が土台にあるのでしょう。そしてその長い契約書を作るには弁護士を雇わなくてはならないので、お金も時間もすごく掛かります。
対照的なのが日本で、映画配給の契約書も2ページくらいしかなくて、しかもそれにさえ正式にサインしないままにどんどん上映の準備が進んでいることもある(笑)。でも、それで特に問題が起きたりしない。ある意味、とても効率がいいと言えますよね。
もちろん、国の成り立ちの違いもありますから、契約書の厚さがそのまま倫理観の欠如や猜疑心の蔓延の表れだとは言いません。ただ、日本の場合はもともと「めったなことがなければだまさないし、だまされない」という論理で動いてきた社会だった。そこに平気で人をだます人間が、しかも国のトップやその周辺に出てきてしまったことが怖いのです。それまで「だまされる」ことに免疫が無かっただけに、社会に猜疑心が本格的に生まれてきた時に、全体が排外主義とか戦争とか極端な方向に行ってしまうのではないか、と思います。もしかしたら、もう既にそうなりつつあるのかもしれません。
世界によって自分が変えられないために
想田 そんな中で、中島さんの『保守と立憲』を読んでいて非常に大事だと思ったのが、「立憲」「リベラル」「保守」といった言葉について、非常に分かりやすくはっきりと定義されていたことです。先ほども、先人へのリスペクトが欠けた安倍首相の態度は「保守」からは遠いところにあるという話がありましたが、このあたりの概念の混乱を正していかないと、今の流れには太刀打ちできないと感じます。
中島 安倍首相や、あと橋下前大阪市長なども、選挙で民意によって選ばれた自分たちに最終的な決定権があるという発言を繰り返していますね。憲法という「過去からの歯止め」よりも、今生きている人間によって選ばれたことの方が重要だ、と考えているのでしょう。彼らはしばしば「保守」だと言われますが、この考え方はむしろ「革新」だとしか思えません。
想田 それを更に強烈にしたのがトランプ大統領ですね。彼も、一応「保守」と言われている共和党の大統領です。安倍首相もトランプ大統領も、「保守ですよ」と言いながら革命的な──もっと言えば破壊的なことをやっているのに、なぜか「保守」というラベルの方が一人歩きしていく。このねじれを整理しないと、僕たちの思考は混乱したままになってしまうと思います。
もしかしたら、故意に混乱させられているのかなと思うこともあります。安保法制が成立する時に、野党が「戦争法案」という呼び方をしたら、安倍首相はそれを躍起になって攻撃しましたよね。あれは、せっかく「平和安全法制」というネーミングで人々の意識を混乱させごまかそうとしているのに、本質を突くようなことを言うな、というふうに聞こえました。「裁量労働制」や「テロ等準備罪法」もそうですが、彼の戦略のコアに、「本質とはあべこべのネーミングをすることで、名称の方のイメージを印象付ける」というものがあるように思います。
中島 安倍内閣が生まれ、「橋下維新ブーム」があり、という中で、ここ数年僕はずっと「言葉の崩壊」について考えています。社会はやはり言葉によって成り立つもので、権力者が言葉を恣意(しい)的に操作すれば、それだけで社会は大きく変わってしまう。言葉の意味が崩壊すれば、社会の何もかもがめちゃくちゃになっていく。日本だけではなく世界中が今、その境界線に立っていると感じます。だからこそ、自分たちが使っている言葉を一つひとつ、きちんと定義し直さなくてはならないと思ったのです。
今回の本の副題「世界によって私が変えられないために」は編集者が付けてくれたのですが、もともとはガンディーの言葉で、もう少し前後を付け加えるとこうなります。〈あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。そうしたことをするのは、世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである〉。とてもいい言葉だと思います。
一人ひとりの「自分が変えられないようにするため」の行動が集まって大きな力になるのが社会というものなのだと思います。
塩の行進
1930年にインドで、マハトマ・ガンディーと彼の支持者がイギリス植民地政府による塩の専売に反対。製塩の為にグジャラート州アフマダーバードから同州南部ダーンディー海岸までの約386kmを行進した抗議行動のこと。