「庶民の英知。そして日常を引き受けるということ。(前編)」からの続き。
過去を無視することは、未来を食いつぶすこと
中島 僕は、安倍首相という人に一番欠けているのは、最初に触れた「死者のまなざし」を意識する感覚だと思っています。自分を「保守」だと言っているにもかかわらず、死者に対する思い、先人へのリスペクトが全く感じられず、謙虚さというものが見られない。
そして、これまで不文律ながら慣習やルールとして存在してきたものを、平気で打ち破る。こんなことをしたら恥ずかしいといった感覚も持たないから、公文書の書き換えなども平気でやってしまうわけです。
集団的自衛権行使容認についての批判が高まっていた時、内閣法制局長官に外部の、行使容認派の人間を据えるという異例の人事が強行されましたが、あれも以前は「特に法律にはダメと書いていないけれど、やってはいけないこと」として保守政治家の間で共有されるコモンセンスがあったわけです。それを安倍さんは「いや、法律に書いてないでしょ?」とあっさり無視してしまう。過去に集積されてきた膨大な知に対する非常な軽視だと思います。
想田 「保守」からは一番遠い姿ですね。
中島 そのとおりです。そして、この問題が非常に重要だと僕が考える理由は、「死者のまなざし」を意識するということは、単なる過去に対する固執ではないと思うからです。
柳田国男の著書『先祖の話』(1946年)に、それなりに財を成して安定した老後を送るひとりの老人が、これから目指すのは、いい「御先祖になる」ことだと語るエピソードが出てきます。柳田はこれにいたく感心するのですが、この老人が言っているのは、自分は未来の子孫にとっての「先祖」になるのだから、いい御先祖になるために今を良く生きなければいけないということ。つまり、「先祖」を通じて、過去・現在・未来という「縦軸」がつながっているのです。
こういったことを、近代の日本人は忘れようとしている。それは単なる過去の冒涜(ぼうとく)ではなく未来に対する死であるというのが柳田のまなざしです。安倍首相に欠けているのはまさにこの視点ですよね。例えば、アベノミクスは完全に未来を食いつぶしている。未来からの前借りと言ってもいいと思います。
想田 中島さんのおっしゃる「縦軸」への認識がゼロなんでしょうね。
例えば、今基地建設が問題になっている辺野古を見ても、僕なんかは単純に、あのきれいな珊瑚礁の海を埋め立てるということを想像しただけで心が痛むんです。
中島 冒涜というか、人間として「やってはいけないこと」という感覚がありますよね。
想田 あります。そして、それはまさに自分が死んだ後の未来という観念がどこかにあるからのような気がするのです。例えば、今絶滅危惧種になっている動物たちは100年後にはみな絶滅する、なんていう話を聞くと、「大変だ」と思う。100年後なんて絶対に自分は生きていないのに、強い危機感を抱くし、「社会の在り方を変えなくては」なんてことも考えるわけです。
これは僕だけが感じることではなくかなり一般的な感覚で、言い方を変えれば倫理観とも呼ばれるものだと思うのですが、安倍首相にはなぜかその倫理観が欠如している。そして、それは安倍首相だけの問題ではないからこそ、安倍政権がこれだけ長期化しているのだろうとも思うのです。
9条改憲と、失われた社会への「信頼」
中島 それとも関連するのですが、僕と想田さんはほぼ同じタイミングで「自衛隊の活動範囲などを明確に限定するために改憲をするべきだ」という意見を表明し始めたように思います。これはなぜかといえば、社会の中で、過去の経験に基づくさまざまな「暗黙知」が共有されているということに対する信頼が崩れてきたからだと思うのです。
これも『保守と立憲』の中で書いたことですが、憲法の主役は実は「死者」です。立憲主義とは国民が権力を縛るという考え方ですが、その「国民」とは今生きている人だけではなく、既に亡くなった人たちでもあります。過去のいろんな経験、失敗を通じて得た教訓を元に、三権分立とか、表現の自由を侵すなとか、侵略戦争をやるなとか、政府の暴走にさまざまな歯止めを掛けているのが憲法なんですね。
この時に、かつての日本のように過去から積み重ねられてきた「暗黙知」が共有されていて、政治や社会に対しても「まあ、そこまでひどいことはしないだろう」という信頼がある社会であれば、憲法の条文は短くても構わないのです。そこに書かれていないことに対する共通の合意、いわば「行間」があると信じられるからです。
ところが、「書かれていないことは無いのと同じ」とばかりに、どんどん勝手に解釈を重ねていく安倍首相のような政治家が現れ、「暗黙知が共有されている」という信頼が崩れた社会においては、残念ながら憲法の条文は長くせざるを得ないというのが僕の感覚です。つまり、これまでは不文律で問題なかった部分についても、非常に恥ずかしいことながら言語化して歯止めを掛けないといけないような社会になっているのが、日本の現状だと思います。
想田 僕も同じ意見です。具体的には安保法制が成立した時期に強く思ったのですが、もう今の権力者は現行の憲法では手に負えない、もっとしっかりと憲法で縛るという発想を持たなくてはならないと考えるようになりました。それまでは、自分のことを護憲派と呼ぶことに何の躊躇もなかったのですが、ここまでくると、護憲よりも立憲という発想で対抗するしかないんじゃないか、と。
中島 条文だけを見れば、9条は非常に「穴が多い」ものだと思います。自衛権の範囲も設定されていないし、自衛隊の存在も書き込まれていないし、もちろん自衛隊が何をしてはならないかも定義されていない。それでも多くの人たちが9条を手放してはならないという感覚を抱き続けてきたのは、9条が単なる法律ではなく「叫び声」みたいなものだからだと思います。
塩の行進
1930年にインドで、マハトマ・ガンディーと彼の支持者がイギリス植民地政府による塩の専売に反対。製塩の為にグジャラート州アフマダーバードから同州南部ダーンディー海岸までの約386kmを行進した抗議行動のこと。