今、物事を考えるときの時間軸がどんどん短くなっていっていて、政治についても多くの人がみんな3カ月後くらいしか見ていない気がするのですが、例えば10年後、100年後とスパンを広げれば、違うものが見えるかもしれない。過去から現在、未来へとつながる長いスパンで考えつつ、自分の生活の中で何をすべきかを考える。今すぐに世界を変えるためではなく、世界に自分が変えられないための行動を、みんなでちょっとずつやっていく、そういうふうになればいいなと思っています。その中で、僕にとっては「言葉についてきちんと考える」ことが自分の役割なのかな、と。
想田 おっしゃるとおりですね。僕は、今一番やってはいけないのは「焦ること」ではないかと思っています。焦って何かを一気に解決しようとするのは、安倍首相のやり方とコインの裏表みたいなもので、結局はうまくいかないのではないでしょうか。
ただ、「こうやれば一気に状況をひっくり返せる」ということに対する誘惑は非常に大きい気がします。だから、その発想が出てきた時に、どう踏みとどまれるか……。昨年(2017年)の「希望の党」の結党なんて、まさにそういう感じだったでしょう。
中島 「拙速」でしたね。
想田 中にいた人たちは、オセロで角を取ったみたいに、これでひっくり返せると思っていたんじゃないでしょうか。でも、そういうのはやっぱり本物じゃない。本物の変化を起こすにはすごい時間が掛かるということを忘れてはいけないと思います。
僕がよく言うのは「ゴミ拾い」です。この世にはいっぱいゴミが落ちていて、もちろん一人では拾いきれないし、中には一人では絶対に動かせないような大きいゴミもある。じゃあ、目の前のゴミを一個拾うことに意味がないのかというと、そんなことはないはずなんですね。
これは中島さんのおっしゃったこととも共通しますが、ゴミを一つ拾えば確実に一つ分、世の中はきれいになる。しかも、それを見ていた誰かが「私も拾おうかな」と言ってまた一つ拾ってくれるかもしれないし、「じゃあ、この粗大ゴミをみんなで動かそうよ」と協力する人も出てくるかもしれません。
ただ、この時重要なのは「強制はできない」ということ。自分自身は淡々とゴミを拾いながら、周りの人が自発的に「拾おうかな」という気になるのを待つしかないんだと思います。
中島 ガンディーも「内発性の喚起」ということを言っています。ガンディーが300キロにもわたる「塩の行進」 をやったのも、断食を重ねたのも、それによってガンディーの伝えたいことが言葉ではない次元で伝わった時に、人々の間に大きな力が内発的に生まれてくると考えたからでした。おそらく、そうした「内発性の喚起」こそが今の日本に一番欠如しているもので、僕はなんとかそれを取り戻したいんですよね。
想田 自発的にゴミを拾う人が増えてくるには時間は掛かるかもしれないけれど、待つしかない。そこで人をだましてやらせたり、「ゴミ拾いしたらお金が儲かるよ」なんて言い始めたのでは、また本物ではなくなってしまうのだと思います。
中島 民主党政権も含め、最近の政府が国民に提示し続けてきたのは、常にそうした功利主義だったと思います。僕たちはここでもう一つ、それとは全然違う原理を提示する必要がある。それはおそらく、最初に話し合った「猫に餌をやる」ような行為を含んでいる何かなのではないか、と思います。
塩の行進
1930年にインドで、マハトマ・ガンディーと彼の支持者がイギリス植民地政府による塩の専売に反対。製塩の為にグジャラート州アフマダーバードから同州南部ダーンディー海岸までの約386kmを行進した抗議行動のこと。