「リア充が憎らしく思えた」「声を出さない人に苛立った」といった感想が示すように、彼らは自分たちの行動を正当なことと見なし、内面的・情緒的な関与を強めていく。芝居とわかっている行動であっても、人びとの「義憤」を駆り立てる危険な力を発揮しうるのだ。
こうして敵対者は容赦なく攻撃すべき「悪」となり、これを攻撃する行動は「正義」となる。自分は権威=善の側に立ち、その後ろ盾のもとで悪に正義の鉄槌を下すという意識なので、攻撃をためらわせる内面的な抑制は働かない。それどころか、この「義挙」の前に立ちはだかるいかなる制約も正義を阻む脅威と見なされ、「自衛」のためにさらなる暴力の行使がもとめられることになる。
敵や異端者への攻撃の中で、参加者は自分の抑圧された攻撃衝動を発散できるだけでなく、正義の執行者としての自己肯定感や万能感も得ることができる。そこに認めることができるのは、暴力が歯止めを失って過激化していく負のスパイラルである。
日本に見られるファシズムの萌芽
このようなファシズムの危険な感化力は、私たちにも無縁のものではない。近年わが国では在日韓国・朝鮮人に対するヘイトスピーチやヘイトデモが大きな社会問題になっているが、民族的出自の異なる人びとへの憎悪や敵意を煽る加害者たちの差別的・排外主義的言動が、権威と結びついた集団行動の過激化のパターンをなぞっていることは明らかだ。
彼らにとって、在日韓国・朝鮮人とこれを支援する人びとは「反日勢力」であり、日本で不当な特権を享受しながら破壊工作を行う「売国奴」である。それゆえ、これを差別・攻撃することは「正義」であり、「日本のため」の正当防衛であるということになる。
たとえば、朝鮮学校への補助金交付をもとめた各地の弁護士会の声明をきっかけに、複数の弁護士に対して大量の懲戒請求が寄せられた事件(『朝日新聞』「ブログ信じ大量懲戒請求『日本のためと思い込んでいた』」2018年6月23日〈外部サイトに接続します〉)を見てみよう。あるブログの呼びかけに応じて懲戒請求を行なった人物が、弁護士から損害賠償をもとめられた後になって「日本のためになると思い込んでいた」と反省の弁を述べたのは、いかにも特徴的だ。
この人物を行動へと突き動かしたのは、「日本を守らねばならない」という使命感であり、「反日勢力」の脅威に対する危機意識である。だがそこには、自分の行動とその目的に対する責任ある判断が欠けている。
そうした人びとにとっては、敵対者の脅威が現実に存在しているか、これに対する自分の行動が適切かは問題とならない。重要なのは、自分がどれだけ怒りを感じ、使命感を呼び覚まされたかである。それゆえ、彼らの思想・信条をいくら究明したところで、過激な行動に走る理由を十分に理解することはできない。
差別的な言動をくり返す加害者たちの内面的な動機に迫る上ではむしろ、彼らがそうした活動の中で感じる解放感、自分の感情を何の制約も受けずに表現できる「自由」の経験に注目することが必要だろう。
「日本」というマジョリティの権威を笠に着ながら、数の力で社会的少数派や反対派に攻撃を仕掛けるという行動は、権威への服従がもたらす「責任からの解放」の産物である。彼らはこれによって存分に自分の欲求を満たしながら、堂々と正義の執行者を演じることができる。その何物にも代えがたい快感にこそ、ファシズムの危険な魅力があるといってよい。
ファシズムに飲み込まれないためには
ファシズムが「悪」であり、民主主義社会の基本的価値と相容れないことは、今日では誰もが知っている。ヒトラー率いるナチスがユダヤ人や反対派を弾圧し、戦争とホロコーストに突き進んでいった歴史を、私たちはくり返し学んできたはずだ。だがそれが遠い過去の出来事にとどまるならば、いま「義憤」に駆られて「自衛」に走ろうとする人びとを押しとどめることはできない。
ファシズムを悪なるものとして否定するだけでは、多くの人びとがその魅力に惹きつけられ、歓呼・賛同しながら侵略と犯罪に加担していった歴史の教訓をいかすことにはならない。それどころか、臭い物に蓋をするような生半可な教育は、人びとを無免疫のまま危険にさらすことにもつながる。「ファシズムの体験学習」の狙いも、若い世代に適切な形で集団行動の危険に触れさせ、それに対する対処の仕方を考えさせることにある。
これまで9回実施した体験学習では、受講生の参加意欲は非常に高く、授業の狙いを的確に理解して、集団行動の効果に対する認識を深めているようだ。「自分たちと異なる人を排斥したくなる気持ちが理解できた」「中学・高校まで制服を着ていたことが怖くなった」などと感想を書いた学生もいる。
ただしこうした危険な授業を実施する上では、アフターフォローに細心の注意を払う必要がある。何よりも重要なのは、受講生が自らの体験をファシズムの危険性に対する認識につなげることができるよう、的確なデブリーフィング(被験者への説明)を行うことである。本記事もまた、そうした取り組みの一環といってよい。
「ファシズムの体験学習」から得られる最も大きな教訓は、ファシズムが上からの強制性と下からの自発性の結びつきによって生じる「責任からの解放」の産物だということである。指導者の指示に従ってさえいれば、自分の行動に責任を負わずにすむ。その解放感に流されて、思慮なく過激な行動に走ってしまう。表向きは上からの命令に従っているが、実際は自分の欲求を満たすことが動機となっているからだ。そうした下からの自発的な行動をすくい上げ、「無責任の連鎖」として社会全体に拡大していく運動が、ファシズムにほかならない。
この単純だが危険なメカニズムは、いくぶん形を変えながら社会のいたるところに遍在している。学校でのいじめから新興宗教による洗脳、さらには街頭でのヘイトデモにいたるまで、思想の左右を超えた集団行動の危険性を、私たちはあらためて認識する必要がある。世界中で排外主義やナショナリズムの嵐が吹き荒れている今日、ファシズムの危険な魅力に対処する必要はますます高まっている。大勢の人びとが熱狂に駆られて「正義の暴走」に向かったとき、これに抗うことができるかが一人一人に問われているのである。
ファシズム
狭義には、第一次世界大戦や世界恐慌後の混乱を背景に、イタリアやドイツなどで台頭した独裁的・全体主義的な政治運動・体制を指す。議会制民主主義の否定、偏狭な民族主義や排外主義、暴力による市民的自由の抑圧といった特徴をもつ。広義には、指導者への絶対的な服従と反対者への過酷な弾圧を特色とする共同体統合の原理・手法を意味する。
リア充
「現実(リアル)の生活が充実している人」を意味するネットスラング。主に彼氏・彼女がいる人のことを指す。
スタンフォード監獄実験
1971年、アメリカの心理学者フィリップ・ジンバルドーが行った実験。スタンフォード大学の地下実験室を模擬的な刑務所に仕立て、公募した被験者を看守役と囚人役に分けて、それぞれの役割を演じさせた。6日間で中止されたこの実験によって、看守役が囚人役に対して自発的に暴力をふるうようになることがわかったが、最近になって看守役に対する演技指導などが指摘されたことで、実験結果には疑義も出ている。
ミルグラム実験
アイヒマン実験とも呼ばれる。1961年、アメリカの心理学者スタンリー・ミルグラムがイェール大学で行った実験。公募した被験者を教師役とした上で、生徒役が問題を間違えるたびに段階的に強まる電気ショックを与えるよう指示した(実際には電流は流れておらず、生徒役は苦しむ演技をするサクラだった)。実験結果は、約2/3の教師役=被験者が致死的な電気ショックを与えたというものだった。