家にいると1枚も撮らない日もあるので、歩いていてシャッターを押すチャンスと出会えるのは、カメラマンにとっての喜びですね」
1938年に沖縄県那覇市首里に生まれた石川さんは、1959年に毎日映画社に入社し、64年に香港のスタジオに勤務後、ベトナムに向かった。カメラマン生活は50年以上の大ベテランだが、心が動いたらシャッターを押したいと思う気持ちは、50年前と変わっていないと言う。
「むしろ年齢が上がったことで、今まで感じなかったことを感じられるようになったり、経験を踏まえてシャッターを押したりができるようになったと思います。たとえば東日本大震災の被災地では生活そのものが破壊されていますが、私は戦争でも破壊されている場所を多く見ているから、戦争と災害の爪痕はどう違うのかといったことを、被災地で考えていました。昨日の箱根の関所も今は自由に行き来できるけど、昔は違ったのかなと考えると、それはそれで面白くて。時間をかけて歩きながらいろいろなものを見るわけだから、贅沢な旅ですよ」
歩くのは明るいうちと決めていて、日が暮れたら宿に入り、ビールを飲むことを何よりも楽しみにしている。だから時には「ああ、早く着かないかな」と思うことはないのだろうか?
「むしろ早く着かないほうがいいです(笑)。一日は長いほうがいいなと。でも夜はそれこそ食事をしてビールを飲んだらもう、すぐ寝ます。ただこの前は集中して、25時間ぶっ通しで原稿を書いてました。一睡もしないまま、翌朝も歩きましたよ」
石川さんによる旅の記録は、『石川文洋80歳 列島縦断あるき旅』として共同通信社が各新聞社に配信している。週1回の連載で文字数は約1600字だが、8000字を超えてしまうこともあり、担当編集者が短縮して掲載していると明かした。
「あまり長く書かないでくれって言われているけど、つい書いてしまって(笑)。だって一週間の出来事を4枚では表現しきれなくて。それはどこの町に行ってもそうで、連載はもう30回を超えましたが、毎回書くことを抑えているぐらいです」
今日まで生きてこられたのは「運があった」から
後ろから近づいてきた、山歩きを楽しむ6人組に声を掛けられる。「どこから来たんですか?」と問われると、石川さんは「沖縄から来ました」と即答した。
「どこから来たの?って聞かれたら北海道からですけど、それでは北海道出身の人だと思われてしまうから。今は長野に住んでいますが、私は沖縄出身だからいつも『沖縄』って答えているんです」
歩き旅から一時帰宅中の2018年12月中旬、石川さんは沖縄県名護市辺野古に行き、土砂投入の様子を海上から写真に収めている。そして沖縄県では2月24日に、辺野古の米軍新基地建設に伴う沿岸部および大浦湾の埋め立てに対して、賛成か反対かを問う県民投票が行われた。投票率は52.48%で、埋め立て反対には投票総数の71.73%となる43万4273票が集まり、賛成の11万4933票を大きく上回った。なお「どちらでもない」は、わずか5万2682票だった。この結果をどう受け止めているのか。投票の翌日、石川さんに改めて質問した。すると、
「反対の声が72%というのは、県民の民意を示していると思います。賛成が19%、どちらでもないが8.7%いましたが、彼らも全面的に賛成していたり、本当にどちらでもいいと思ったりしているわけではなく、家族が基地で働いていたりと仕方なく投票した人もいるのではないか。沖縄知事選でも民意が示されたはずなのですが、国はそれを無視して辺野古の埋め立てを強行しています。
普天間基地所属の米軍ヘリが2004年に沖縄国際大学の敷地に墜落したことなどを根拠に『普天間基地が世界一危険だから』と主張していますが、普天間の危険性は沖縄県民が一番よく知っています。
そして辺野古に新基地を建設するのは同時に軍港を建設するためで、それは将来的に自衛隊が利用することを視野に入れています。まさに国策として、民意を無視しながら進めているのが辺野古埋め立てですが、民意を無視しても国策を進めることが正しいとは、先の戦争を体験した私にはとても思えません」
と、ハッキリ言い切った。
第二次世界大戦で唯一の地上戦が行われた沖縄だが、ベトナム戦争やイラク戦争では沖縄の米軍基地が米兵を戦地に送る役割を果たした。沖縄という土地は戦争の被害者であると同時に、戦争に加担してきたのだ。そのことをカメラを通して知る石川さんは、「命(ぬち)どぅ宝(命こそ宝)」という言葉をとても大切にしている。
「ベトナム、カンボジア戦争では、日本人のジャーナリストが15名亡くなっているんだけど、彼らもずっと生きていたら、今もいろんなことができたはずだと思っています。私はこうして生きているから、日本縦断をしたりとか何かしらできている。でも死んでしまえば、もう何もできない。だから大勢の人が死んでしまう戦争は、来ないほうがいいんです」
報道写真家の一ノ瀬泰造(1947~73年。『地雷を踏んだらサヨウナラ』〈1985年、講談社文庫〉)や沢田教一(1936~70年。1966年ピューリッツァー賞)など、カメラマン仲間をこれまでに何人も亡くしてきた。彼らと石川さんを分けたものは、一体なんだったのか。純粋な興味から今日まで生きてこられた理由について問うと、「まあ、運ですね」と笑った。
「運以外に何もありませんよ。サイゴンで戦地にいなかったのに、たまたまロケット弾が飛んできて小さな破片が頭に当たって亡くなった人を私は知ってますから。ただ私には運があった。それだけですよ」
これはおそらく仲間への優しさからの言葉で、理由は本当のところ、誰にもわからない。ただ一つ言えるのは、生きているからこそ歩き、写真を撮り、誰かと出会うことができているということ。そして「家にいたら1枚も写真を撮らない日もある。だから歩きたい」との言葉どおり、歩くことは生きることに繋がっているのだろう。
石川さんは今この時も、日本のどこかを一人で歩いている。もしストックを突きながら歩くオレンジ色のリュック姿を見かけたら、ぜひ手を振ってみて欲しい。