柳宗悦の主観的な選別と嗜好
では情報の取捨選択の次の段階、すなわち、選択された情報による新しい価値の提示という点では、民藝はどのような性格をもっているのだろうか。
民藝を民藝たらしめるもの、それは、あまたあるありふれた日用雑器の中から、主観によって選ばれるというその存立要件にある。若い頃には西洋美術を、また年齢を重ねてからも英国家具を愛好するなど、富裕層出身の柳の意識の根底に貴族的な高級文化嗜好が残存していたことは間違いない。一方で「哀傷の美」という言葉が象徴するように、朝鮮や沖縄の工藝へと深く感情移入をした柳には、マイノリティーへの共感やある種の泥臭さに傾倒する一面も併せ持っていた。柳の内面には矛盾した複数の嗜好が併存しており、その嗜好に基づく価値判断によって選ばれる日用雑器のコレクション(この場合は「蒐集」というべきだろうか)は、類例のない独特のアトモスフィアを帯びることになったのである。
そして、柳の収集した民藝は、強大な金と権力を背景とした王侯貴族のコレクションとは大きく性質を異にするものでもある。柳が富裕層出身であったことは事実だが、かといって高額な美術品を多数収集できるほどの資産を有していたわけではない。日本民藝館にしても、単独では不可能で、賛同者であった大原孫三郎らの資金援助があって初めて開館にこぎ着けることのできた施設である。にもかかわらず、柳が独力で1万点以上もの作品を収集することができたのは、個々の作品が非常に安価なモノばかりだったからだ。もとは無名の職人が制作した日用雑器なのだからそれも当然のことである。そして、日本民藝館の多数のコレクションのなかで、重要文化財に指定されているものは「絵唐津芦文壺」1点のみであるなど、民藝が提唱されて100年近くたった現在も根本的な状況は変わっていない。
市場価値にとらわれない情報の取捨選択
繰り返すが、日本民藝館に展示されている大多数の日用雑器に、市場価値や文化財としての価値はほとんどない。それらは、柳の独自の価値判断に基づいて特定の作品が精選されることによって、初めて民藝という新たな価値の集合体となったのである。本稿の趣旨に引き寄せるなら、それは「情報=モノの取捨選択による新たな価値の創造」というキュレーションの営為そのものだといえる。そして民藝という成功例は、他の分野においても同様の展開の可能性、すなわち、市場価値の低い情報=モノであっても、取捨選択の仕方次第で新しい価値を生み出すことができるというキュレーションの可能性が潜んでいることを物語っているのではないだろうか。
キュレーションは情報処理ではない
さて、今までの議論を読み進めてきて、ふとキュレーションは情報処理のことではないのかとの予断を抱く者もいるのではないか。その予断は情報を分類・収集して再構成するというプロセスに由来するのかもしれないが、答えはNoである。この点に関しては、スティーブン・ローゼンブラム(彼は展覧会企画とネット検索の共通性に注目した数少ない一人である)の『キュレーション コンテンツを生み出す新しいプロフェッショナル』(プレジデント社、2011年)の以下の一節を参照してみよう。
キュレーションは高度な専門能力を必要とする商業、編集、コミュニティなどにおける根本的な変化である。……人間こそがキュレーターなのだ。人間はどんなコンピュータもできないことをやってしまう。コンピュータで処理するには、人間の感情は複雑きわまりなく、個人や集団の趣味もあまりに多様である。キュレーションとは選別であり、組織化であり、プレゼンテーションであり、進化そのものだ。
キュレーションと情報処理の違いを一言でいえば、それは創造性の有無である。既に述べたように、知的生産技術としてのキュレーションの意義は、情報を収集・分類し再構成することによって新しい情報を生産すること、既存のものとは異なる新たな価値を生むことにある。それに対して、情報処理にそのような創造性はなく、情報はただ粛々と処理されるだけに過ぎない。そう考えると、ケ・ブランリ美術館と民藝という今回取り上げた二つの事例が、いずれも紛れもないキュレーションの産物であることが実感される。両者の現場において、情報はただ粛々と処理されるのではなく、収集・分類・再構成のプロセスを経て新たな情報や価値を生み出す役割を果たしている。作業のプロセスにおいてコンピュータが活用されているのだとしても、そこでは紛れもなく人間を主体とした知的生産が営まれているのだ。
今回ケ・ブランリ美術館と民藝という二つの事例を選択したのは、現代アート以外の展覧会であってもキュレーションが可能であると示すことが主な目的であった。もちろん、キュレーションの定義を拡張することの意図はそれだけにはとどまらず、日々多くの情報を消費しているわれわれの日常生活において、それらの情報の分類や再構成を通じて、新たな価値や情報を生産する機会を増設していくことにある。今後も様々な事例を通じて、その可能性を検討していきたい。