多数の有権者が、(1)両候補の公式HPや政策パンフレットを見ることもなく票を入れた、(2)公式HPや政策パンフレットを見たが、そこに含まれる誤りに気が付かず票を入れた、(3)熟読し誤りにも気が付いたが、大した問題ではないと判断して票を入れた(仮にこの選択肢に該当する読者がおられたら、非常に興味深い事例なので是非とも筆者までご一報いただきたい)。ほとんどの有権者が候補者本人と面識もない以上、有権者の投票行動はHPやパンフレット等公開されている情報を吟味して行わなければならないはずだが、果たしてどれほどの有権者がそのような情報探索と吟味、熟慮を行っているだろうか。たとえ自分の支持する政党が公認した候補者であっても、出されている情報を自ら吟味し、不適当と考えられる場合には容赦なく不信任という結果を突きつけなければ、候補者も政党も、ひいては政府も議会も容易に堕落してしまうのは当然だろう。民主主義は、主権者が主体的に考え、理性的に行動することによってはじめて有効に機能する。支持する政党や所属する組織の提示した候補や、マスコミ等への露出の多い候補に何も考えずに票を投じるだけでは、意思のない機械と変わらない。
(3)主権者の判断材料の一助としての「地図の歴史」
しかし、「情報を自ら収集し、咀嚼し、比較し、解釈し、判断し、行動すべし」と突然求められても、多くの人は実際どのようにすればいいのかわからないというのが正直なところだろう(学校教育の目的は本来そのような能力と態度を培うところにあるはずなのだが)。地図ひとつ見ても、その情報媒体としての重要性に対して、地図読解、主題図描画などの教育は、学校でも社会でも限定されたレベルでしかなされていない。
そこでここでは、主権者にふさわしい情報の吟味や判断の力を養う一助として、地図という媒体とそこに載っている情報の特性、利用にあたっての留意点について、極めて簡単にまとめる。なお、紙幅の関係で語れることは限られるので、より詳しくは紹介する文献をあたってもらえるとうれしい。
人類がいつごろ地図を発明したかは、分からないくらい古い。そもそも、移動や交易を円滑にするため、あるいは灌漑や開墾、都市や道路の建造などを通して土地と人民を統治するためには、測量術とその成果である地図は不可欠であり、人類の文明は地図(測量)とともに明けた。ヘロドトスは『歴史』のなかで、古代エジプトで毎年起こるナイル川の氾濫後の耕地整理のために測量学が誕生したと述べている。古代のエジプトやギリシアでは幾何学(英語でgeometry)も興隆したが、この語源は「土地(geo)」を「測る術(metry)」、すなわち測量学の意味で、古代ギリシアで生まれてエジプトで活躍したといわれるエウクレイデス(ユークリッド)など、はこの観点からいえば典型的な測量学者だといえる。もともと測量(地図)と数学は不可分の関係にあり、近代でもドイツの数学者カール・F・ガウスなどが測量学の発展に多大な貢献をしている。
東洋においても、司馬遷の『史記』夏(か)本紀に、禹(う。初代王朝の初代王)が測量器具を手に中国各地を巡り、治水等を行った功によって夏王朝を創設したと記されているように、文明の始原に測量(と地図)が大きな役割を果たしている。また、春秋時代の政治家、管仲の著作とされる『管子』では「凡兵主者必先審知地図」(「将たる者は必ず地図に精通していなければならない」というような意味)と、軍事(政治)と地図の密接な関係が述べられている。「測量」という用語自体も「測天量地」を短縮したもので、兵事に打ち勝ち広大な帝国を治めるという現実的な次元でも、天地と交信しその成果を手の内に把握するという象徴的な次元でも、測量と地図の扱いに習熟することは為政者の教養とされた。エウクレイデスや管仲が、自身の没後2000年以上後に東洋の島国で起こったイージス・アショア問題を知る機会があったなら、一体何を思うだろうか。
(4)地図と向き合い使いこなすために
これら地図の歴史を簡単に概観するだけでも、次の2点が了解されよう。
第1に、天地を測り図化するという行為が元来、数学と軌を一にしていることからわかるように、地図の作成と読解においては科学的な厳密性と客観性が求められなければならないという点である。もちろん、球体(回転楕円体)の地球を平面に落とし込み、省略と縮小を加えることが求められる地図は、原理的に完全に正確なものになることはなく、図上の誤差を完全に排除することもできないが、だからこそ地図の作成・読解にあたっては科学的かつ厳密な手続きが踏まえられる必要がある。地図はいわば科学の精髄であり、地図の作成と読解は、人類が長年にわたって積み重ねてきた科学の成果を受け継いでいくことにつながる。
第2に、文明の曙から統治や軍事と結びついて利用され続けてきた歴史をみるに、地図と政治は極めて密接な関係を持っていること、むしろ「すべての地図は政治的な産物である」とすらいえることである。先の高橋はるみ氏を例にとれば、政策パンフに北海道の図像を使うこと自体、さらに北海道の図像に「北方領土」を描画する(あるいはしない)こと自体、すでに政治的な行為といえ、さらには色の選択や光の当て方にまで政治的な意図を読み取ることができる(高橋氏の場合、肝心の北方領土の形が全くデタラメなのがすべてを台無しにしているが)。酒井やすゆき氏の『AICHIメガリング構想』についても、地図の主題上特に描画する必要があるとは考えられない刈谷ハイウェイオアシスが特筆大書されていること、他方で当地の重要な高規格道路である東海環状自動車道が描かれていないことなど、地図の端々から強い政治的メッセージが読み取られる(もっとも、刈谷ハイウェイオアシスの位置を間違えていては元も子もないが)。地図は「事実」を示すものであるが、そこに示された「事実」の束は、取捨選択され編集された恣意性を帯びていることに留意が必要である。中には、「事実」自体が誤っている論外の出来のものもあるが……。
まとめると、地図を扱う上では、地図の有する客観的科学的性質を理解・尊重し、さらにその背後にある政治性にも目を配ることが求められる。古来、地図の素養は帝王や為政者に必須といっていいものであった。ならば、すべての主権者が帝王であり為政者であるはずの民主主義社会においては、万人に地図の素養が求められることになる。「凡兵主者必先審知地図」という管子の言葉は、民主日本においてはわれわれ全員に要求されるものでもある。それにつけても、本当に頼みますよ、防衛省。分度器で角度測っている場合じゃないって。
なお、地図の歴史や地図の扱い方についてさらに知りたい人には、まずは下に挙げる文献を紹介したい。よき先達になるだろう。もちろん、この他にも紹介すべき文献は多いので、これらを手掛かりにさらに先に進んでほしい。
●地図に関する基本書
(5)まず隗より始めよ――imidasのトンデモ地図から
最後に一枚の地図を取り上げて本稿を締めたい(第3図)。
この地図は、imidasの『時事用語事典』の項目「北朝鮮の核実験(2006年)」などに2019年8月時点で掲載されていた朝鮮半島の地図である(本稿の公開時には差し替えられていると信じる)。全面が非科学的な地図の見本のような惨状を呈している。