自分の言葉を誇りに思うために
栢木 先日お会いしたときに頂いた対談記事(温又柔☓後藤正文「私たちを縛る“普通”からの解放」『The Future Times』9号)のなかで、温さんが言葉というものは「個人の人生経験そのものを反映している」、それは「個人と個人が触れ合うためにある」と語っておられたのが印象に残っています。僕自身がいま話している言葉は、僕がこれまでどういう人と付き合ってきたか、どこで暮らしてきたかということの結果です。それから、母語にせよ、外国語にせよ、どういう先生から言葉を習ったのかということが後々まで影響します。その先生の語彙とか発音の仕方などを知らず知らずのうちに継承してしまいますから。
人間はそれぞれ違う人生を歩んでいるわけですから、当然、言葉には個人単位でさまざまなバリエーションが生まれる。温さんが書かれているものは、そういう言葉の多様さや個性の重要性を実感させてくれます。そういう実感を得る機会が、国語教育のなかにもあったほうがいいのかもしれません。とくに子どもたちが、自分が話している言葉に自尊心を抱けるようになる工夫がもっと必要だと思います。
温 おっしゃるとおりです。私の場合、グロリア・アンサルドゥーアというチカーナ(メキシコ系アメリカ人)の詩と出合ったことがとても大きかった。
アンサルドゥーアは、学校では英語を習っているけれども、家庭ではメキシコ出身の家族とスペイン語を話すという環境で育った人です。親が話しているスペイン語は話せるけれども、メキシコ人からすると「正しいスペイン語じゃない」と笑われる。さらに、学校に行くと、今度は「おまえの英語は学校の英語と違って、ちょっとずれている」と言われる。とにかく自分にとってなじみ深いはずのどの言語とも距離のあった彼女は、「野生の舌を飼い馴らすには」というタイトルの詩を書くんです。アンサルドゥーアは、「自分はすべてのボーダーの上に立っている。そして、この言葉自体が私だ」とも宣言しています。
管啓次郎さんによる素晴らしい日本語訳でこの詩と出合ったときに、私は自分もまた、「正しい」日本語や「正しい」中国語を喋らなければという思い込みを脱することができました。そして、日本育ちの台湾人である自分の言葉をもっと誇ろうと、そのために小説を書こうと誓ったのです。
さらに幸運なことに、今まで話してきたように日本語自体が複雑なルーツを持つ言葉で、漢字の読みなどにしても統一性のないものを表現する文字体系を持つものだった。だから、私の場合は自分の「野生の舌」を取り戻すために日本語を駆使して自分の世界を書くことができたんですね。私はそういう意味で文学に救われたという感覚があります。
栢木 自分の言葉のなかにある「ずれ」とか「複雑さ」をコンプレックスではなく、誇りと思えるようになるきっかけ、温さんの場合は、それが文学との出会いだったわけですが、音楽にせよ、映画にせよ、そうしたきっかけになる作品をもっともっと増やしていかなければならないと思います。
温 正しくあらねば、という抑圧はどこにでもあります。「正しい」言葉が話せないというコンプレックスを手放し、むしろ訛りやずれこそが個性だと誇ることができれば、みんなずっと楽になるのではないか。その意味では、アンサルドゥーアと同じくメキシコ系アメリカ人の作家であるサンドラ・シスネロスの小説も私を勇気づけてくれました。「はじけるような話しことばの英語のなかにスペイン語がどんどん混じりこんでくる」「めちゃくちゃユニーク」な文章で綴られた『マンゴー通り、ときどきさよなら』(くぼたのぞみ訳、白水社)を読んでいると、いろんな意味で複数の文化を行き来させられながら育ったということは、決して嘆かわしいことなのではなく、むしろとても誇らしいことだと胸をはりたくなります。
私がアンサルドゥーアやシスネロスと出合ったように、言葉にはさまざまなバリエーションがあると気づけるチャンスが国語教育のプログラムや、社会のなかにももっと用意されているといいなと思います。知らずしらずのうちに、日本人にとって「よい移民」になろうとしてしまう本ばかりでなく。