自然な日本語と不自然な日本語。私たちはそれらをどのように区別しているだろうか。移民というテーマを端緒に、言語の多様性をどのように考え、それに向き合い、将来へつないでいくのかをめぐって、台湾生まれの作家温又柔さんと、移民研究者であり翻訳者でもある栢木清吾さんが対談した。
※この対談記事は、2020年2月16日に神戸大学梅田インテリジェントラボラトリにて行われたトークイベント「いくつもの声とともに――書く、訳す、物語る」を一部再構成したものです。
名前がもたらす固定観念
温 栢木さんの訳された『よい移民――現代イギリスを生きる21人の物語』(ニケシュ・シュクラ編、創元社)は、日本にいる別の国にもルーツを持つ子どもたちに対して「『よい移民』『よい在日〇〇人』にならなくていいよ」という道を照らす本ですよね。こういう本を私も子どもの頃に読みたかったと心から思います。
ただ、正直に言えば、「よい移民」という言葉を最初に見たときは、あまりいい気分はしなかった。この言葉は、いわゆる「普通の」イギリス人を脅かさない存在としての他者、という意味で、その背景には「よい移民」なら受け入れてやるという排他的なニュアンスを感じたせいですね。もちろん、本の帯に「『良い』、『悪い』は、いつも他人が決めている」とあるので、あえて挑発的につけられたタイトルだと、頭ではわかってはいたのですが……日本人にとって、「よい外国人」でないと自分や家族は受け入れられないにちがいないと漠然と思い込んでいたことなどがよぎったのでしょう。
私は、台湾で生まれて、3歳のときから日本の東京で育ちました。考えてみたら、生まれた台北から今も住んでいる東京へたった1回移動しただけなのに、国を越えるとそれだけで日本では、「複雑」な出自だと思われるんですよね。その意味では、「ゆうじゅう」という名前を名乗るときも、それだけで「普通」っぽくないと反応されるんです。
栢木 先月、『朝日新聞』(2020年1月14日)のインタビュー記事で、温さんはご自身の作品は「ぜんぶ名前小説」だとおっしゃっていましたね。記事を読みながら、僕自身も、作者や登場人物の名前から、特定のテーマや舞台設定を期待してしまっているところがあるな、と反省しました。小説を読むときだけでなく、実生活でも、出会った人の名前から、勝手に先回りしていろいろと想像してしまっていると思います。
温 私が子どもの頃に読んだ本や漫画に出てくる女の子たちは「しずか」とか「まみ」や「えり」など日本人の名前ばかりで、「ゆうじゅう」のような日本人っぽくない名前の登場人物はめったにいませんでした。私自身が、登場人物と言えば日本人しか出てこない物語にばかり浸っているうちに自分もできるだけ日本人っぽくなりたいと思うようになってゆく。そのほうが「普通」だからと。その思いの一つが、こんなへんてこな名前じゃなくてもっとかわいい普通の名前だったらよかったのに、という気持ちです。私の最初の小説は、そういう思いを抱えながら日本で育った女の子が主役だったので、彼女が「普通」っぽくない自分の名前をどんなふうに受け入れるか描くことにもつながりました。その後もずっと、私の小説には一見、日本人っぽくない名前を持つ人物が必ず出てくるし、どこか「名前小説」になっちゃうんです。
周りとの違いを乗り越えて
栢木 実は、『よい移民』を出すとき、執筆者の名前とプロフィールの書き方でずいぶん悩みました。この本にエッセイを寄せている21人は、イギリス以外の国に「も」ルーツを持つ、いわゆる移民2世、3世で、「パテル」とか「ロー」とか「オクウォンガ」とか、「イギリス人っぽくない」苗字を持っています。今のイギリスで暮らしていますと、日常のなかでさまざまな苗字の人と出会いますから、この苗字はどこどこの国のもの、となんとなくわかるようになってきます。ですから、イギリスでこの本の原書を読んでいる人は、とくに説明されなくても、「パテルはインド系だろう」とか「ローは中国系だろう」とか「オクウォンガはたぶんアフリカ系の人だな」とか、当人たちのバックグラウンドをある程度想定しながら読んでいるはずなのです。むろん、これこそがステレオタイプであり、実際にそれぞれのエッセイを読めば、当人たちがそうしたステレオタイプにどれほど苦しんでいるか、あるいは、当人たちの経験には、そんなステレオタイプでは捉えられない多様性や豊かさがあることがわかってきます。ですが、日本では良くも悪くも、そういう名前をめぐる知識、あるいはステレオタイプが共有されていないものですから、これを訳書として出すとき、訳者の僕がプロフィール欄や宣伝文などで、誰々は「◯◯系イギリス人」とか、「両親は△△出身の移民」といった背景説明をある程度せねばなりませんでした。できるかぎり、当人たちの「名乗り方」に配慮したつもりではいますが、そもそも「◯◯系」と名指されること自体を問題にしている本でもありますから、そういう名指しを訳者がせざるをえない状況に、ずいぶん葛藤がありました。
名前で言えば、本書のなかにずばり「私の名前は私の名前」というエッセイがあります。書き手は、シメーヌ・スレイマンというトルコ系キプロス移民の2世の作家です。そのなかで彼女は、子どもの頃、周りの先生や友だちたちが、彼女の名前を英語風の発音で「シメン」と呼ぶのが耐え難かったという話をしています。面白いのは、「シメーヌ」はトルコ系の名前でもなんでもないことです。それは彼女の両親が好きだったあるフランス劇に登場するスペイン人ヒロインにあやかってつけた名前なのです。ですから、スペイン風の名前というか、フランス語風に発音されているスペインの名前というか、まあ複雑です。このように本来、その人の名前と出自、使用している言語、背負っている文化などのあいだの関係は、単純な等号で結べるものではありません。にもかかわらず、日本語は日本人の言葉、イギリスはイギリス人が住む場所、といった短絡的な図式を作り、それを「普通」だとして周囲に押しつけようとする人々がいます。そして「普通」から外れているとみなされる人々は、いつまでも自分の名前のことや、そこに来ることになった経緯を説明しなければならないという状況に置かれます。『よい移民』は、そういう「普通さ」に対する怒りを語った本でもあります。
温 「私の名前は私の名前」という、シメーヌ・スレイマンさんの生い立ちが凝縮されたこの章には、私もとても強く惹かれました。とくに、「両親と私はずっと互いに異なる言語を使っていた。私たちはずっと異なるアクセントで話した。愛が翻訳の中で失われることは決してなかった」というところには心が震えました。「愛があれば乗り越えられる」「子どもを愛さない親はいない」などのように、物事をなんでもかんでも愛へと還元するのは安易ですし、その弊害はまさに暴力的なのでこういうことを言うときは慎重でいたいのですが、“翻訳の中で失われることのない愛”は確かにあると思うんですよね。