香山リカ(以下「香山」) その反出生主義が、なぜ今多くの人の関心を呼んでいるのでしょうか。
森岡 一つは、反出生主義という考え方が「母親が子どもを産む」という、これまで絶対に否定してはいけないと思われてきた部分に切り込んでいることに、非常に大きなインパクトがあったからではないかと思います。
出産について私たちが触れる言説というのは、結局のところは「素晴らしいことだ」というものばかりです。「子どもができて初めて生きる意味を知った」とか「自分より大事な存在ができた」とか、さまざまな形で出産というものが肯定されていく。ある種のアンタッチャブルな、聖域ともいうべき状況になっているんですね。いいか悪いかは別にして、反出生主義がそこへ切り込んでいっていることが大きな衝撃を与えるのだと思います。
たとえば、原爆詩人・栗原貞子さん(1913~2005年)の「生ましめんかな」(1946年)という詩があります。広島の被爆者であるご本人の体験をもとに書かれた詩で、原爆が落ちた後、大けがをした人たちが大勢、真っ暗なビルの地下室にうごめいている。その中で一人の妊婦が「赤ん坊が生れる」と声をあげた……という内容です。
そうしたら、「私が産婆です。私が生ませましょう」と言った人があった。この人もまた、さっきまでうめいていた重傷者だった。そして〈かくてくらがりの地獄の底で/新しい生命は生まれた。/かくてあかつきを待たず産婆は血まみれのまま死んだ。/生ましめんかな/生ましめんかな/己が命捨つとも〉といって詩は終わります。
産婆が自らの命と引き替えにして赤ちゃんを世に送り出した。非常に感動的な詩で、私自身もとても感動します。この感動を否定できる人は、特に日本人にはほとんどいないと思うのですが、その場面で「この赤ん坊は生まれてこないほうがよかった」という主張をするのが反出生主義なわけです。
現代において、私たちは「産むこと、生まれることは素晴らしい」と聖域化して、そこに土足で上がり込むことを避けてきたきらいがある。そのことが、反出生主義という光が当たることで改めて浮き彫りになった面はあると思います。
香山 「聖域化」という点では、いわゆるリプロダクティブ・ヘルス&ライツ(性と生殖に関する健康と権利)の観点に立って、フェミニズムの視点から「産まないという生き方もある」と主張する声もありますね。「母親になることは何よりも素晴らしい」という風潮へのアンチテーゼとして「産まない」という選択をするという……。それと反出生主義との関連はどう考えればよいのでしょう。
森岡 女性が子どもを産むということを、長い間男性中心の体制が管理してきた。そのなかでの「出産強制主義」への抵抗として、「産まない」という選択を認めようというのは、フェミニズムやウーマンリブの出発点にあるものですね。確かに、それも広い意味での反出生主義ということになるのかもしれません。ただ、今注目されているコアな意味での反出生主義、ベネターなどが主張する内容とはかなりずれているような気がします。
というのは、どんな子どもであれ生まれないほうがいいという反出生主義の主張は、「産む・産まないは女が決める」というフェミニズムの主張と対立するからです。反出生主義では、女性の「産まない自由」は認めても、「産む自由」は認めないので、そこで折り合うことができないのだと思います。基本的には、反出生主義とフェミニズムには関連性はあまりなくて、むしろ対立する面が強いと考えるべきではないでしょうか。
「誰が産めと頼んだ」という怒りの意味
香山 さて少し前に、「反出生主義の作品ではないか」としてネット上で話題になったアニメ映画があります。『ミュウツーの逆襲 EVOLUTION』(2019年公開。1998年『劇場版ポケットモンスター ミュウツーの逆襲』のリメイク作品)。遺伝子操作で人工的に作られたポケモン「ミュウツー」が、自身の存在意義に悩み、「誰が産めと頼んだ」と、自分をこの世に送り出したものへの恨みを口にする。そこが反出生主義と重なると言われたわけですが、森岡さんはこの作品はご覧になりましたか。
森岡 見ました。ただ、これもやはり反出生主義とは少し違うのではないかというのが感想です。
なぜなら「誰が産めと頼んだ」という言葉自体は、自分が生まれてこないほうがよかったとは思わない人でも口にすることがあるだろう、と思うからです。自分が今ここにいること自体は否定しないけれど、産んでくれと頼んだわけではないのに勝手に存在を与えられたことへの疑問や不満を抱くということは、十分あり得るのではないでしょうか。「誰が産めと頼んだ」というのは、反出生主義的な怒りというよりは、別の怒りをそういう言い方で表しているだけではないか、という気がするのです。