香山 そうですね。精神科医としては、患者さんとは診察室以外で会わないというのが職業規範なので難しいところもあるのですが、何年かに1回はそれを踏み越えて、「夜でも何でもいいから電話して」と連絡先を渡してしまうこともある。その思いも、やっぱり嘘ではないんです。
森岡 もちろん職業倫理としては、そのような関係性をつくるのは控えるべきです。そのうえで、もし自分の親しい人から「死にたい」というメッセージを受け取ることがあったら、どんなことを言ってあげられるだろうとよく考えるんですが、最近、こんなことを思いました。
生きていくというのは、凍った湖の上を歩いていくようなもの。氷はどこが薄くなっていて、いつどこが割れて落ちるかも分からない。それでもみんな、懸命に歩いている。でも、一人では心細くて歩けない。私と一緒に薄氷の上を歩いてくれる人の数が減るのは嫌だ。だからあなたに死んでほしくない──。そんなふうに伝えられたら、と思っています。
人が「生まれてきてよかった」と思えるためには
森岡 私は、反出生主義を単なる流行に終わらせず、もう少し深く掘り下げていこうとするのであれば、突っ込んで考えるべき点が二つあると思っています。
一つは、前半でお話ししたような、「人はなぜ生まれてきたのか」といった、宗教的な次元を取り込んで議論をするということ。そしてもう一つが、人が「生まれてきてよかった」と、誕生を肯定できる条件は何だろうかということです。これは、単なる個人の問題ではなく、生まれ落ちる社会の条件、あるいは地球環境の条件といったことについても考えていく必要があるだろうと思います。
香山 おっしゃるとおりだと思います。
でも一方で、そうした本質的な問題とは別に、人間ってすごく小さなことでも喜びを感じますよね。温泉に入って「ああ、生きててよかった」と思う、あるいはおいしいものを食べて「ああ、生まれてきてよかった」と感じる、それも嘘ではないはずです。そういう日々の小さな喜びを積み重ねながら、悪いこともあったけどいいこともあったね、みたいな感じで生きていくのが人間というものなのではないでしょうか。
森岡 はい。私も、直感的にですが、着地点はそこかなという気がしています。たとえば、ずっと好きで思い焦がれていた人から何気ないメールやラインが来ただけで「生まれてきてよかった」と思うことは誰しもあるでしょう。それが反出生主義に対抗するための、一つの結論ではないでしょうか。
香山 そう考えると、コアな反出生主義というのは、ある意味で非常に「欲張り」なのかなと思います。前半でお話しした「潔癖ラディカリズム」のように、一点の曇りも、一つの痛みもない人生でなくてはいけないというのは、自分に対してものすごく理想が高いともいえますよね。
以前、ある本で読んだ話なんですけど、大企業を経営していた人が晩年、「人生にはいいことも悪いこともあって、うまくいく人もいかない人もいるけど、均(なら)せばだいたい同じで、棺桶に入るころにはだいたいみんな同じ人生だ」と言っていたそうです。それを読んで、確かにそうかもな、と思ったんですよね。人生にそんな「完璧」はないし、いいことばかりの人生も、ひどいことばかりの人生もないんじゃないかな、と。なんだかとたんに人生訓みたいな話になって恐縮ですが。
森岡 みんながそう思える社会であるといいですね。「いろいろあったけど、棺桶に入るころにはだいたいみんな同じだな」と。今の社会には、そう思えない人たちもたくさんいると思うんです。ですから、私たちは現状の社会を変えていかなくてはならない。この点については、反出生主義者も、そうでない人も、ともに協力していけるはずです。
香山 みんながそう思うことができるためには、誰でもそこまで生活に困ったりすることがなくて、勉強や就職の機会もある程度は均等である、そういう社会的、現実的な前提条件がまずは必要なんですよね。生き馬の目を抜くような社会だったり、失敗したらそれで人生もうおしまい、みたいな状況であってはいけないわけで。
森岡 だから、もし私たちが反出生主義の縛りから抜け出して、この世に新しい命を生み出していくという選択をするのであれば、そのときにはその命を、危ないときには支え合えるような社会的な絆の中に産み落としていく責任があるんだと思います。社会的なセーフティネットがしっかりあって、誰もが棺桶に足を突っ込むときには「いいことも悪いこともいろいろあったよね」と穏やかに思えるような、そんな社会をつくっていかなくてはならない。その義務を、現存世代である我々が担っているんだということが、反出生主義を考えることで逆に明らかになるのではないでしょうか。