かつて愛読していたとはいえ最近はめっきり手に取ることもなくなっていたから、改めて彼の書いた短篇を読み直してみた。すると、どうも書けない。手に負えないのだった。この作家の凄さに初めて気がついた。だけども、どう凄いのかを説明することができない。
けれども本当を言えば、わざわざぼくが駄文を書き連ねることもないのだった。なぜなら今年の正月に共和国という出版社から『蔓延する東京 都市底辺作品集』という本が出たからであった。彼の作品がどんなものか知りたければ、そちらを買い求めればいい。この「新刊」には、どうもかなり硬骨であるらしい共和国の社主による解説も付いているし、掲載作も作家の初期から中期の終わりという、もっとも多作で実りある時期の仕事の数々を見通せるラインナップになっている。
それではどうして書くのかといえば、意地としか言いようがない。縁故主義と新自由主義と排外主義の融合した暴政を一向に止められず、絶え絶えだった息にウイルスまで交じる現在の東京を書く武田麟太郎はすでにいない。ならばせめて、ぼくのような者が彼と彼の書いた小説について紹介することも、上記したイズムがむやみと人々の上に振り下ろされる現在にあっては、まるで無意味とは思われないと独り決めにして、こんな文章を書いている……我が事でここまで紙幅を費やしてしまった。せっかくの武田麟太郎を語る機会であるというのに、これでは共和国の社主に叱られる。
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さっそく作品について紹介しよう。
けれど、具体的な作品名を挙げ、文章を引っ張ってくるわけではない。そうじゃなく武田麟太郎作品の特にしばしば出てくる場面や物の傾向について、少しばかり。久しぶりに読んでみて――武田麟太郎は必ずと言っていいくらいに、どの作品の中にも汚物を置いているのに気がつく。牛や馬の糞は生やさしい(?)ほうで、糞が道端に転がり川に浮かんでいるならまだしも、バラック小屋で寝起きする者たちの家の前を糞便が流れていく。海抜からさして高くない土地で地上げせぬ所に下水の不完全なのが重なって、少しの雨でも膝まで浸かるほど水が出るせいだ。これが彼の短篇に描かれる東京だった。そんな悪所だから家賃も安い。貧しい者たちが寄り集まってくる。そうした「不良住宅」に住まずに済んでいる、ましな暮らしを送る者たちも出てはくる。だが、彼らの着ている服の擦り切れた襟を覗き込んでみれば、垢や脂やふけで茶色に染まっている。一日の仕事を終えた彼らが夕涼みに寄りかかった川辺の欄干から下を見てみよう。真っ黒なヘドロの川の水に、付近の工場から出た排水の泡が入り交じり、鼻を突く臭いが立ち上ってくる。
汚いもの、醜いもの、非合法のもの、臭いもの、あらゆる意味で「使い物」にならないもの……彼はこれらを小説の中に書かずにいられない。なぜなら起きて食って働いて、と言わば日の当たった、経済的で合法の生活空間は、陰に隠され捨て去られる多量の排泄物を伴うものだ。表を書く以上、裏も書かなければ嘘になってしまう。またそして、どこにでも糞や貧民や非合法の商売があることが異常だというのなら、それは表が異常であるということだ。表と裏を張り付ける経済の構造が歪んでいる以上、裏のどぎつさは表をよく反映したものにほかならない。大雨の度に水が出て居住空間を浸すバラック小屋の風景に糞を書き入れることを以て、彼はそれを政商が跋扈する社会の裏書の解説とする――これが彼の作品中の糞便の秘密である。
糞を出したら、今度は口について書こう。口だけでは物足りないから顔全体を、特に表情を。武田麟太郎の小説にはうなだれ、しょげかえって、悄然とした顔つきの者ばかりが出てくる。澄ました顔、訳知り顔、他人とは違う角度から世の中を見渡そうとして、寝違えた者のように首を傾げて苦しげな顔、断言と政敵への攻撃の熱弁に上気した煽動家の顔、誰が言っていて誰から聞いたのかも確かめず八方に噂をまき散らす慌て者の顔――危機の時代にあって、お馴染みの顔たちだ。これらの顔を我が物とし、小説の登場人物たちの面に被せるには、あまりにも彼は分別がありすぎていた。とてもできるものじゃない。だから、それら得々とした表情より彼はしょげかえってぼんやりとした顔を選ぶ。そしてこの、身も世もないといった表情は、彼の作品に共通する通俗性の埋め合わせとばかりマチズモから遠いのだった。
ここで話は最初に戻って――古い居酒屋はどんどん潰れていく一方で、それにしても東京は、やはり首都らしい体裁を崩さないでいる。コロナ以前のようには飲食店に客足が戻らず中小企業はどんどん潰れていると報じられているけれど、それにもかかわらずマンションとビルはあちこちに建つ。東京の、ことに繁華街は更地を1秒だって放っておかないみたいだ。ビルが解体されても繁華街の真ん中に地面が露出しているのはごく短いあいだに過ぎなくて、すぐ瘡蓋みたいに防塵防音の幕が張り巡らされ、その中でカンカン、ドドドと工事の音がはじまる。それでいつのまにか真新しいビルが立っている。新築のビルの1階から4階まで居酒屋が入っていて、ワクチンが出回ってきたとはいえ、それにしたって世は皆コロナだというのに、居酒屋なんてはじめてもつのかね? などと看板を見上げながら思うとしても、この種の店はコロナが無くとも3年経たずに居抜きで別の店舗になっているものだ。そうした都市の代謝が病気の蔓延した時期でも続くんだから、やはり首都なのだろう。