東京にはずいぶんと行っていない。足が遠のいたあいだに、かつてはよく入った居酒屋のうち、果たして何軒が生き残っているのかと考えると、なんだか空しくなってくる。
東京といってもぼくが根城としていたのは、もっぱら渋谷だった。
高架下の「やまがた」にはよく行った。文字通り吐くまで飲んで、店を出てすぐのガードレールにもたれたまま動けなくなってしまった知人の介抱をするうちに危うく終電を逃しかけるなぞは、しょっちゅうの出来事だった。そこ、ゲロと小便と体臭(ここで寝起きせざるを得ない人間がいるためであった)と排気ガスの入り交じったような空気の澱む高架下から左の方に歩いていけば、細い坂道の途中に「千両」という串焼き屋があった。揚げ物が旨く、中央通りの同名の店から暖簾わけをされたのだと人づてに聞いたことがあったが本当だったのか、どうか。そこも後にして信号をいくつか渡り、人ごみの中をくぐって井の頭線の方に出れば、高架そばの雑居ビルの何階かに焼き鳥屋がある。そこにもしばしば入った。ここでは数年前、狭いカウンターで、隣に座るふたり組の男たちが何やら熱心に話していたのに出くわした。洩れ聞こえてくる単語を拾うと、どうやら片方は人工地震兵器の存在を信じているようで、しきりと連れに向かって世界各地の大地震の裏に、陰謀結社の企みのあることを立証しようと試みていた。きっとあの男はいま頃も、コロナの蔓延にも負けずに世界を操る者たちの戦いに明け暮れているに違いない、マスクに手洗いという新習慣をあざ笑いつつ。
他にも一度だけ入ったのや人に連れていってもらい、酩酊したために店名を忘れてしまった所も加えるときりがない。そのうちのある店はコロナ流行前の再開発で閉まり、残りの店は移転したり休業したり、しぶとく営業を続けていたりしている。だが、生き残った店も今のままではらちが明かないだろう。
渋谷だけじゃない。東京中の居酒屋が店を閉めた。東京の地面の上で繰りかえされる新陳代謝から、そこだけは免れていて、もしかするとずっと在りつづけてくれるんじゃないかと思っていた店も、気づけば閉店の貼り紙がある。古ぼけた外観の、赤提灯をさげた店が無くなり、ぽっかりと更地が出来る。やがて工事が始まるとチェーン店が出来て、一時の間ではあるが夜の路地を灯りが照らす。けれど、2年かそこらで閉まり、また別の店になるか駐車場になるだろう。かつてあった店については、SNSで閉店を惜しむ声と、年老いた店主を労う声が呟かれるだろう。が、やがて誰からも忘れられる。
この2021年の東京を、もし武田麟太郎が生きていたらどう書いていただろうか? きっとコロナ流行りのいまの東京を書きまくり、そのために昼も夜もなく出歩いていたはずだ。
彼の筆ならば、道路の路肩に溜まった空き缶や弁当箱と都知事のポスターを、空き店舗である旨を知らせるショーウィンドウにぶら下がった看板と首相の写真入りの朝刊一面を、ブルーインパルスの五色の煙と住宅街の路地を染め上げる救急車の赤色灯を、使い捨てマスクがぎゅうぎゅうに詰め込まれたごみ袋と東京オリンピックの記念モニュメントを、実に巧みにモンタージュしたはずだ。
***
いきなり武田麟太郎と言っても、読者には不親切でしかないだろう。
何者なのか? 小説家である。
20世紀の初め、1904年に大阪で生まれ、46年に神奈川県片瀬で死んだ。同じ生年の作家には堀辰雄や舟橋聖一、また丹羽文雄がいる。武田麟太郎より10歳ほど下の織田作之助なぞは、同郷の作家とあってずいぶんと敬愛していたようだ。それで思い出したけれど武田麟太郎の書く文章には、小説の中にも散文の中にもしばしば感傷が顔を覗かせる。それをオダサクは愛したのだろうし、また両者の感傷が実のところ同じではなく異なっているのが面白いが、一旦それは措くとして、とにかく二人共が、風景や人間を描くさいには哀しみを塗り込まねば気のすまない点で似通っている。大阪と感傷、そうくればひょっとすると武田麟太郎は岸政彦氏の文学的遠縁ではないかな、と書いてはみるがこれは贅言に属する。
死んで75年が経った小説家であり、いつの間にか閉まった店と同じく、彼の書いた小説も忘れられて久しい。それじゃどうして今、2021年にもなって武田麟太郎についての文章をぼくは書いているのか。依頼が来たからだと言えばそれまでだ。その依頼も、やはり居酒屋をきっかけにしたものだった。神保町の居酒屋にぼくはいた。2019年の暮だった。そこで飲みながらいつか武田麟太郎みたいな文章を書きたい、あるいはこの小説家についてのエッセイを書きたいと、ぼくは酒の勢いにまかせて同席する編集者に向けて言っていたらしい。高校の時分から彼の小説を愛読していたとも。
その後もビールを飲み続け、ぼくはへべれけに酔った。それで自分の言ったことをすっかり忘れていた。けれど編集者が憶えていて、武田麟太郎について書いてみないかと頼んできたから引き受けることにしたのだった。
高校に入学してすぐに武田麟太郎の小説と出会った。ブックオフで見つけた文学全集で、卒業まで何度読み返したか知れない。名前だけは以前から知っていた。中学の頃に、これもブックオフで買った三島の『作家論』に取り上げられていたから。高校1年の春に小説を書こうと思ったときからはじまった、幸福な濫読時代に彼と出会ったわけである。武田麟太郎の収められた文学全集は、売られるまえには押入れか倉庫にでもしまわれていたのだろう。どの頁を開いても黴臭かった。彼の書いたものを読み、小説というのはそれまでいたずらに模倣しようとしていた三島や鏡花のようには書かなくともいいと知った。汗と脂と垢とヤニのまとわりついた人物しか出て来ない話を書いてもいいと学んだ。むしろ、三島や鏡花のような小説は書けっこないのだから、断然ぼくは武田麟太郎で行こうと思った。三島や鏡花の書く世界は、ぼく自身の生活とは関係がなかった。だからこそ良かったが、けれど関わりのないものを真似ることはできなかった。一方で武田の小説の中には失敗する者しか出てこなかった。美化とも情緒とも道化とも「エモさ」とも無縁に、登場人物たちはあらゆることに失敗し、そのまま舞台の袖に引き揚げていくのだった。16歳の癖に――あるいは16歳らしく、まだ何も失敗なんてしたことがなかったにきび面の若者は、これこそ大人の小説なのだと思った。実家のどこかには、高校の頃に書いたタケリン紛いの文章を書き付けた原稿用紙の束が捨てられずにあるはずだ。それを書いていた頃の自分は、まさか出版社から武田麟太郎についての小文を依頼される日が来ることを夢にも思っていなかった。だから、編集者から書いてくれないかとメールがきて、すぐに応じる旨を返して書き出したのだが――。