なのに、ぼくは家に閉じこもって次のような文章を書きつけるのだった――武田麟太郎はどの小説でも悲惨から目をそらさない。なぜといって目をそらす仕草は最も皮相的な現実への評論であるからだ。評論をした自分に気づいたら、今度は薄笑いがやってくる。一人で薄笑いを浮かべているのを恥じれば、嘲笑する対象を用意するだろう。現代ならば、フェミニストやコロナ対策の改善を訴える学者などがよいのだろうが、別にそれらに限らない。あざ笑うことの出来る対象であれば、その対象が真摯な態度を露わにしているのならば何だっていい。とにかく肝心なのは一人でにやついているわけじゃない、そうした者たちを笑っているのだと思い込めればしめたもので、いつしか自分が一端の毒舌家だか批評家になったような気がしてくるから不思議だ。いや、何も不思議じゃない。ばつの悪さから抜け出ようとして、ずるずると冷笑に落ち込んでいくだけの話なのだ。そのみっともないざまを演じないためには、だから目をそらさないことしかない。それがむずかしい。だけど武田麟太郎はそらさない。どの短篇でも随筆でもいい、読んでみるときっと分かるはずだ。
まだまだ武田麟太郎のこと、東京のこと、コロナのことを書きたい。だけど煙草がなくなった。夜更けだから人もいないことだし、寝間着から着替えてコンビニまで行った。明るい店内に一人だけで働く若い男は、ぼくを見るなり、
「ありますよ! ピースのロング。カートンで」
と言い、それから「嫌になりますよね」と、サービス品の使い捨てライターを探しながら話しかけてきた。
「ええ。いつまで続くのか……」
ぼくはそう返事をして、「こんな病気に怖がってなきゃいけない時期が」と言葉を続けようとしたが、
「また値上がりですもんね」
と、どうやら煙草のことを男は言ったものらしかった。ぼくは返事をし、煙草を手にして家に戻った。そして書き終わった。