2012年3月16日に死去した詩人で批評家の吉本隆明。1950年代に文学者の戦争責任などを論じた批評文を発表し論壇に登場。60年代の安保闘争時には多くの若者に思想的影響を与えた。80年代には「反核運動」を批判、当時の日本の消費社会やサブカルチャーの興隆を積極的に評価し、読者からは彼の思想の変節を指摘する声もあったが……。
この時期、吉本は何をつかもうとしていたのか?
80年代に大学に入学し、吉本の詩作品から彼の著作を読み始めたという詩人でドイツ思想研究者の細見和之さんに、没後10年という節目にご寄稿頂いた。
ロシアによるウクライナへの軍事侵略という理不尽な状況のなかで、この稿を書くことになった。今後どのように事態が展開してゆくのか、私には予測がつかない。ロシアをはじめとした大国が周辺国を侵略した場合、第三次世界大戦あるいは核戦争を回避するために他国がその大国との交戦に入れず、結果として周辺国がいわば見殺しにされてしまうという事態は、はなはだ絶望的である。第三次世界大戦を引き起こすのか、核戦争をするつもりか、という恫喝を盾にして、大国が周辺国家への侵略をつぎつぎと実現してゆく……。これを阻止するいちばんの手立ては、やはりその大国内の世論だろう。それにしても、いまだ収束の見通せないコロナという疫病と戦争、私たちはなんという時代を生きているのか。
私自身はこの間、長い19世紀と短い20世紀ということを考えていた。もちろん、1世紀は形式的には100年で19世紀も20世紀も同じ長さのはずだが、本質的に考えるならば、19世紀は1789年にはじまったフランス革命の余波のなかで展開してゆき、1914年の第一次世界大戦の勃発にいたるまでそれが続いたと見ることができる。それにたいして、20世紀は1917年のロシア革命にはじまり、第二次世界大戦とその後の冷戦の時代をへて、1990年前後のソ連と東欧諸国、社会主義政権の崩壊で終わった。そのように考える歴史家は多い。それにたいして、私自身はじつは1980年代がすでに21世紀のはじまりだったのではないか、という気がしている。そう考えると、私にとっての20世紀はさらに短くなる。
こういう時代区分をきちんと論証するだけの準備も能力もいまの私には不足しているが、ある種、直観的にそういう捉え方をしてみたいと思っている。そうすると、吉本隆明の1980年代の仕事の意味にも新たな光をあてることができるのではないか。
私は1980年に大学に入学した世代である。その時点で、私の周辺でも吉本隆明の思想はすでにいくらか揶揄の対象だった。マルクスの思想はもう終わったとするマルクス葬送派が登場し、ポストモダンが唱えられ、思想家としては柄谷行人と浅田彰などに華やかな光があてられていた。その一方で、吉本隆明の主著三部作と目されていた『共同幻想論』、『言語にとって美とはなにか』、『心的現象論序説』が1982年にあらためて角川文庫に収録されもした。そして、それと並行するようにして、吉本自身のリアルタイムの仕事として、『「反核」異論』、『マス・イメージ論』が刊行され、さらにそれは『ハイ・イメージ論』全3巻へと引き継がれてゆく。
1980年代、私にとって吉本隆明は思想家というよりもまずもって「詩人」だった。たとえば、『転位のための十篇』のなかの「ぼくがたおれたらひとつの直接性がたおれる/もたれあうことをきらった反抗がたおれる」(「ちいさな群への挨拶」)や、「ぼくが真実を口にすると ほとんど全世界を凍らせるだろうという妄想によって ぼくは廃人であるそうだ」(「廃人の歌」)といった一節は、若い私の心と頭蓋に深く刻印されることになった。とはいえ、『転位のための十篇』は1953年9月、吉本隆明が29歳になるすこし手前で刊行されたものだ。読書体験にはこういうタイムラグが必ずつきまとう。
くわえて、私の学生時代には、吉本隆明が『「反核」異論』で痛烈に批判する、大きな反核運動が展開されていった。1982年3月に広島で開催された20万人規模の反核集会、そして同年10月に大阪城公園で開催された50万人規模の集会……。大阪大学の学生だった私はいずれの集会にも参加していた。そのとき、私のリュックには、思潮社の現代詩文庫版の『吉本隆明詩集』が入っていたのだ。広島の集会では、大江健三郎がスピーチに立って、反核運動をやってよかったことのひとつは敵の姿が明瞭になったことだ、と暗に吉本隆明を批判して喝采を浴びていたのを覚えている。
吉本隆明の1980年代の思想の源流にあるのは、1978年に大和書房から刊行された『戦後詩史論』といえるだろう。1959年から1960年にかけて『現代詩全集』全6巻が書肆ユリイカから刊行された際に吉本が執筆していた解説を遅れて単行本化したものだが、出版に際して講演にもとづく「戦後詩の体験」と論考「修辞的な現在」が新たに追加された。とくに論考「修辞的な現在」はその後、日本の詩の世界に大きな影響をあたえることになった。その冒頭で吉本はこう記していた(引用は1983年刊の増補版から)。
戦後詩は現在詩についても詩人についても正統的な関心を惹きつけるところから遠く隔たってしまった。しかも誰からも等しい距離で隔たったといってよい。感性の土壌や思想の独在によって、詩人たちの個性を択りわけるのは無意味になっている。詩人と詩人とを区別する差異は言葉であり、修辞的なこだわりである。〔中略〕戦後詩の修辞的な現在は傾向とか流派としてあるのではなく、いわば全体の存在としてあるといってよい。強いて傾向を特定しようとすれば〈流派〉的な傾向というよりも〈世代〉的な傾向とでもいえばややその真相にちかい。だがほんとうは大規模だけれど厳密な意味では〈世代〉的ですらない。詩的な修辞がすべての切実さから等距離に遠ざかっているからだ。(吉本隆明『増補 戦後詩史論』大和書房、1983年、172-173頁。強調は原文)
通常、詩は書かざるをえない必然性を背景にして書かれている、と考えられている。詩が生活の手立てとなりにくいのは、古今東西変わらない。生活の手段として詩を書くということは、作詞家の道でも目指さないかぎりありえない。にもかかわらず、詩を書く者たちは絶えない。詩が生活のためではなく、いわば生きるために書かれているからだ。そのかぎりで、詩の根底にはいつでも切実さがあるはずだ。しかし、戦後の日本の詩はそういう切実さからもはや離れてしまった、というのがその時点での吉本の見立てだった。