桐山は「虹作戦」と名付けられたこの「狼」の実際の計画を織り込むことで、本作を一個の天皇小説に仕立てた。語り手の「僕」は「狼」のメンバーをモデルにした人物だが、爆弾製造の失敗によって片目と片足を失い「昭和の丹下左膳」と化している。沖縄の離島と思われる場所で潜伏生活を送っている彼が、連合赤軍(1972年のあさま山荘事件の実行犯)を思わせる党派に連座していた「兄」に向かって語り掛ける。書簡体形式をとった小説になっている。
作中で語られるのは、「僕」が加わり失敗に終わった昭和天皇爆殺計画の顛末だが、そこに兄弟の父親が終戦間際に加担した、幻の皇居内クーデターの情景が重ね合わされる。昭和天皇を標的とした二つの世代に跨るテロが、「伝説」として語られる仕組みだ。壮大なサーガに見えるが、所々に劇画的誇張が挟まれ、緊張は宙吊りにされる。悲劇と喜劇を巡る作家固有のバランス感覚が、遺憾なく発揮された佳作と言えるだろう。だが本作の発表は思わぬ騒動を呼び込むことになった。
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作家・桐山襲の誕生はひとつの事件だった。文学的修辞ではなく、文字通りの意味で。『パルチザン伝説』が文芸誌に掲載されると、その内容を週刊誌が取り上げた。「天皇暗殺」を描いた作品であると、センセーショナルに書き立てたのだ。この記事に右翼団体が反応、版元である河出書房新社には抗議が押し寄せた。河出側は対応に苦慮し、予定されていた同作の書籍化も頓挫してしまう。
右翼による脅迫騒動といえば、大江健三郎の『セヴンティーン』『政治少年死す』や深沢七郎の『風流夢譚』の件が有名だろう。しかし大江も深沢も当時既に著名な作家だった。対して桐山はまだ無名の新人に過ぎない。それがこれほどまでの騒動を呼ぼうとは。作者自身も想定していなかったに違いない。自身の作品を面白おかしく取り上げ煽り立てた週刊誌の姿勢を、桐山は後に厳しく批判している。
いったんは書籍化を阻まれた本作は、有志刊行委員会の働きにより、翌1984年に作品社から上梓される。その間に無許可の海賊版が刊行されるというトラブルにも見舞われるが、上記経緯もあってか少なからぬ話題を呼んだ。以後も桐山は『風のクロニクル』『スターバト・マーテル』といった作品を通して、忘れ去られようとしていた「政治の季節」を掘り起してゆくことになる。先に述べたとおり、その表現は同時代の主流から大きく逸脱していたが、むしろそれ故に唯一無二の存在たり得ていた。
ところで懸案となった天皇という主題については、いくらか補足が必要かもしれない。桐山は終生この主題に拘っている。デビュー作については既に述べたが、その後の作品でも一貫して天皇をテーマに据えている。遺作となった『未葬の時』は、自身の病と死を見つめた政治色の薄い作品だが、その作中においてさえ昭和天皇の死は生々しく回想されていた。
桐山がなぜこれほどまで天皇に拘ったのか。今日では少々想像しづらくなっているだろうか。天皇とは何かという問いは巨大すぎて、本稿で扱うことはできない。ただ桐山たちの世代がとりわけ問題にしたのは、日中戦争・太平洋戦争の主犯としての天皇だと言える。すなわち戦前は現人神(あらひとがみ)として君臨し戦争を主導し、戦後は一転アメリカの庇護の下、平和と民主主義を言祝(ことほ)いだ昭和天皇その人のこと。「狼」の面々が標的にしたのも、そんな矛盾を一身に体現した存在だったからだ。その拘泥を、桐山もまた引き継いでいる。
もっともここで問われているのは、昭和天皇ただ一人の責任ではない。そんな天皇を「象徴」として戴いた、戦後日本社会そのものだ。朝鮮戦争やベトナム戦争の軍需を担うことで、経済復興を成し遂げた日本。その豊かさによって養い育てられた戦後世代。そうしたすべてが俎上に上げられている。つまり桐山の作品は、天皇を媒介にして今日まで綿々と続く、我々の社会を基礎づける言葉と論理を扱っている。その理路が見えにくくなっているのは、我々がいまだ「言葉が扼殺された世界」を生き続けている証拠ではないだろうか。
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天皇と共にもうひとつ、それに連なる主題として、桐山が拘ったのが沖縄である。『パルチザン伝説』の語り手である「僕」が、沖縄と思しき離島に潜伏していたのは偶然ではなかった。同作では十全に展開しきれなかった事情は、後の作品に引き継がれてゆくことになる。
桐山は学生時代に本土復帰前の沖縄を訪れており、同地から受けた深い印象を後に綴っていた。元々は日本の外部に位置していたこの「南島」の運命は、作家にとって他人事ではない重大な意味を帯びていたに違いない。
『聖なる夜 聖なる穴』は1986年に発表された桐山の代表作であり、最高傑作と目される作品である。同作が題材にしているのは、1970年に沖縄の群衆が米軍への怒りを爆発させたコザ暴動、そして1975年に訪沖した皇太子(現在の上皇)が火炎瓶を投げつけられたひめゆりの塔事件の二つだ。そこに沖縄=琉球の近代化を巡る様々な矛盾が重ね合わされてゆく。沖縄自由民権運動の祖である「謝花昇(じゃはな のぼる)」が現われ、その挫折と狂気が呪わしき地霊と化して、大和=日本に牙を剥く過程が重層的に描き出される。
ちなみに筆者が桐山襲という作家を知ったのは、この『聖なる夜 聖なる穴』を通じてだった。集英社から刊行されていた「コレクション 戦争と文学」の『オキナワ 終わらぬ戦争』の巻に収録されていたのを読んだのがきっかけだ。事柄の性質上、ほとんどの収録作が沖縄の作家によって占められた一冊のなかで、桐山の存在は異質だった。いや、それ以上に作品そのものが強烈で、最盛期のラテンアメリカ文学を彷彿とさせる、むせ返るような濃厚さに目を瞠(みは)った。日本現代文学の土壌で、これほどの強度を持つ作品が書けるとは。それが桐山という沖縄の外部の作家によるものだという事実が、二重に驚きだった。
ただ公平を期すために指摘しておくと、沖縄を主題にすることは1980年代当時さほど目新しい試みではなかった。吉本隆明・島尾敏雄らが主導する「南島論」がブームとなっていた、ちょうどその時期に当たる。桐山より3歳年長で、奇しくも同じ1992年に病没することになる中上健次も、やはり同時期に沖縄及び南洋を舞台にした小説を書いている。そのなかでも桐山が際立っているのは、どこまでも現代史に根ざした、強い批判的視座を手放さなかった点だろう。